企画の発端と変遷
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もともと本書を編纂する事業は日本で最初の類義語辞典を編纂した国文学者芳賀矢一が1922年(大正11年)3月に東京帝国大学を依願により退官するのに伴った記念事業として企画されたものである。1923年(大正12年)3月にはこの事業の推進のために「芳賀矢一功績記念会」も結成された。最終的にこの事業は1926年(大正15年)4月に、当時若手の研究者として将来を期待されていた池田亀鑑に委嘱されることになった。この計画は最初は2ないし3冊程度からなる源氏物語の注釈書を2年程度で完成させることを目指して計画されたものであり、池田亀鑑は当初は当時入手できた印刷本の河海抄や花鳥余情をもとに作業を進めようとしたが、腑に落ちない点があって調べてみるとこれらの注釈書の写本にはいくつもの系統があって写本ごとの差異があったりするため、印刷本の注釈書の内容を元にして適当に取捨選択して一通りの注釈書にまとめ上げることは不可能ではないにしても杜撰の非難を受ける虞があるとして、それよりは古注を研究者が容易に利用できるような資料、すなわち「古注集成」を作ることの必要性を感じたため、記念会に対して同事業を「源氏物語の古注集成を作る事業」に変更することを申し出て了承された。さらに作業を進めていく中で、源氏物語本文の写本ごとの異なりが当時一般に言われていたような「源氏物語の本文には、写本や版本によって単純な写し間違いなどに起因すると見られる細かい差異は多数存在するものの、文の意味や話の筋立てに影響を及ぼすような違いはほとんど存在しない」という状況ではなく、古注の解釈の上でも無視できない差異がしばしば見られることが明らかになり、「それぞれ異なった本文に対して注釈を加えているそれぞれの古注のそれだけをただ集め並べても比較することは出来ない。古注集成を作るためには先に注釈の対象となっている本文の異同を明らかにする必要がある。」として、当時まだ源氏物語の本格的な校本は存在せず、湖月抄や首書源氏物語といった近代以前の版本をそのまま活字化したものか、金子元臣の『定本源氏物語新解』(明治書院、1925-1930年)のような『湖月抄』を底本として河内本で校訂したものくらいしかなかったこともあり、再度計画を変更して第1段階の作業として源氏物語の学術研究に耐えうる校本を作ることになった。この度々の計画の変更については、「芳賀矢一記念会」の了承を得て、また芳賀矢一が死去する1927年(昭和2年)までは同人の了承をも得ていたとされており、この点について池田は源氏物語大成の序文の中で「本来の計画の正しい発展である」と述べている。
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