企画の経緯(スパイダーマン作戦)
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「スパイダーマン (池上遼一の漫画)」の記事における「企画の経緯(スパイダーマン作戦)」の解説
1969年、『週刊少年マガジン』の編集長である内田勝が『月刊別冊少年マガジン』の編集長を兼ねる事になった。『月刊別冊少年マガジン』の独自性を出すため、アメリカン・コミックスに目をつけた内田は、小野耕世に相談。小野がスパイダーマンを推薦し、「単なる翻訳ではなく、舞台や人物を日本に移す」という基本路線が提案された。 その後、内田が池上遼一を小野に引き合わせた。小野はオリジナル版を翻訳する一方、自分の解釈を文章としてまとめた。また、小野はスタン・リーに手紙を書き、資料を求めた。しかし、作品の方向性は池上と編集部に任せていた。後にスタン・リーは「このマンガは、我々のスパイダーマンとは違う。どう評価していいかわからない」と感想を述べている。 誕生編(1970年1月号)はカラーで13ページ。2月号より、100ページでの連載となった。ただし、2回目以降の連載は、通常の無着色ページが多い。 本節は、サンワイドコミックス(朝日ソノラマ)第4巻、第5巻に掲載された小野耕世の文章(「スパイダーマン」随想(1)、(2))に依った。
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