企画の発端とは? わかりやすく解説

企画の発端

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 19:32 UTC 版)

宇宙戦艦ヤマト」の記事における「企画の発端」の解説

本作は、虫プロ商事瑞鷹エンタープライズにも籍を置いていたオフィスアカデミー西崎義展プロデューサー虫プロダクション山本暎一に声をかけ1973年初め頃に企画立ち上げた。前2作(『海のトリトン』『ワンサくん』)を商業的に失敗終えた西崎ロバート・A・ハインラインの『地球脱出』(後に『メトセラの子ら』に改題)における「地球の危機状況から脱出して宇宙移住の地を求める」話に刺激受けた。これに豊田有恒クリスタル・アート・スタジオスタジオぬえ前身)といったSF界の人材参加して練られたものであるテレビアニメ草創期虫プロアニメ脚本執筆していた豊田は、当時アニメ界から離れていたが、西崎虫プロ出身である山本暎一要請応える形で参加した西崎は、子供の頃海野十三南洋一郎によるSF冒険作品から影響を受け、透明な飛行機空飛ぶ戦艦などに憧れていた。 最初企画案は、藤川桂介豊田有恒競合する形で創られた。 藤川案におけるタイトルは『宇宙戦艦コスモ仮題)』。 一方豊田案におけるタイトルは『アステロイド6』。『西遊記』下敷きにして遠い異星人類を救う放射能除去装置取りに行くという基本ストーリーで、この豊田案が提出企画書原案となった当時の世相として、公害問題オイルショックなど大規模な社会問題頻発し『ゴジラ対ヘドラ』『日本沈没』『ノストラダムスの大予言』『漂流教室』など、1970年代前半には“滅亡”や“公害”をテーマにした作品ブームとなっており、放射能汚染による地球滅亡復活という内容には、そうした公害終末ブームという世相企画当初から意識されていた。 豊田案の宇宙船は、小惑星そのものエンジン組み込んだもので、「岩石宇宙船イカルス」と呼ばれていた。乗員世界各国から集まる国連形式構想され、名前や性格など素案作成された。その後岩石宇宙船内部戦艦内蔵された「アステロイドシップヤマト」なるアイデア変更された。いざという時には岩盤砕いてアステロイドリングにするという設定名残本編見られる戦艦は「三笠」のイメージから「長門」に寄っていき、長門ではネームバリューが低いことから「大和」でいいだろう、という話になったデザインクリスタル・アート・スタジオ松崎健一が行い、企画書後述)に描いたのは背景監督間八郎だった。 その後、元虫プロ作家石津嵐脚本家藤川桂介イラスト斉藤和明、背景美術間八郎が加わり検討繰り返され結果、敵はコンピュータからラジェンドラ星人変わり放射能汚染された地球を救うためにヤマト放射能除去装置求めてイスカンダル星目指すという大筋完成したラジェンドラとの激戦乗組員反乱により、1年後生きて地球帰還するのは主人公小竹忍」のみという内容で、この時点ワープ航法波動砲といったヤマト象徴するギミック考案されている。 1973年夏の終わり頃までに『宇宙戦艦ヤマト』の名を冠した企画書完成。全55ページにおよぶ同企画書は、『ポセイドン・アドベンチャー』や『日本沈没』触れ導入部から始まり、全52話プロットヤマト艦内命令系統図、ヤマト本体スペックイスカンダル到着までの日程行程乗組員制服武器様々な惑星異星人宇宙船などに関する諸設定をイメージ・イラスト付きまとめていた。 1974年4月になって松本零士デザインスタッフとして参加依頼受けた。これは、設定制作野崎欣宏推薦よるものだった。既に『宇宙戦艦ヤマト』タイトル読売テレビでの放映決定していた段階での参加だったが、結果的にキャラクター個々ストーリー作りなど作品制作深く関わるうになる松本は、上記1973年企画書にあったキャラクター設定メカ設定一新し1974年5月21日基本ストーリー初稿執筆した。「ガミラス」という名称が初め使われたのも、この稿である。 さらに監督務め予定だった山本暎一が、他の仕事のため1974年6月末にヤマトから抜けることになったことにより、松本石黒昇サポートを受けながら監督務めた松本は、キャラクターメカデザインをするとともに、『新選組血風録』を元に若者集団劇を構成した一説では、『セクサロイド』に感銘した西崎松本デザイン監修持ちかけたところ、「全て任せてもらえるのでなければ」といったん断られたが、上記のように山本離脱したため、西崎松本条件受け入れることになったとされている。これについて西崎1978年エッセイで、『セクサロイド』で機械人間がうまく共存している描写共感覚え、また同作における女性イメージ自分理想像になった述べている。

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企画の発端

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/14 16:13 UTC 版)

オリエント・エクスプレス '88」の記事における「企画の発端」の解説

フジテレビでは、1982年オリエント急行題材とした特別番組『夢のオリエント急行 ロンドン - イスタンブール華麗な3500キロの旅』を制作していた。この番組は、1977年運行終了したオリエント急行が、VSOE社によって定期的な運行再開することを機として制作決定した もので、VSOE社の保有するVSOEだけではなく、イントラフルークの保有するNIOE組み合わせた内容であった。 この時に製作を担当したフジテレビエグゼクティブプロデューサー沼田篤良は、番組準備としてオリエント急行について調査するうちに、オリエント急行対す興味ふくらませていったという。かつてオリエント急行終点だったシルケジ駅トルコイスタンブール位置し、そこが洋の東西分ける町とされていたが、沼田興味抱いたのは、東洋意味するオリエント」と称しているにもかかわらず実際にオリエント急行東洋には乗り入れていないということであった。そこから沼田考えたのは「オリエント急行東洋まで、それも東洋の奥の日本まで走らせよう」というものであった沼田は、ただ日本運んできて走らせるだけでは「ヨーロッパ走っている豪華列車」というだけで終わってしまうと考えたのである。ただし、この時点では夢の域を出るものではなかったという。 折しも、イントラフルークの社長であるアルベルト・グラットは、パリからモスクワ・ナホトカ行き列車走らせたいと考え、その企画沼田にも話していた が、沼田が「オリエント急行そのまま走らせては?」と問いかけると、グラットは「本当はそれをやりたい」と述べたという。

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企画の発端

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 10:07 UTC 版)

ゴジラ (1954年の映画)」の記事における「企画の発端」の解説

本作品のプロデューサー田中友幸1953年に「太平洋の鷲」(本多猪四郎監督)、その後に『さらばラバウル』(本多猪四郎監督)を製作した際に前年東宝復帰したばかりの円谷英二出会い円谷手掛けた特撮成功もあって「特撮物はいける」と実感していたという。この田中が『さらばラバウル』の製作のかたわら全力進めていたのがインドネシアとの合作映画製作企画だった。1953年8月インドネシア国立映画会社(尼: Perusahaan Film Nasional Indonesia、略称:ペルフィニ)の社長務めるウスマル・イスマイルが来日し東宝との間で日尼合作映画製作することで合意両社仮契約締結した。これを受けて田中イスマイルの下で合作映画企画進行し、『栄光のかげに』(監督谷口千吉脚本梅田晴夫主演山口淑子池部良)というタイトルで、終戦後日本帰還せずインドネシア独立のためにオランダとの独立戦争闘った元日本兵の姿を描くという映画のストーリー決定する。 翌1954年2月16日脚本最終的な打ち合わせと本契約のため、田中谷口はインドシアの首都ジャカルタ訪問した2人イスマイル協議重ねて合意至り東宝とペルフィニは本契約調印。これを受け、ペルフィニはインドネシア諸官庁から合作映画製作承認次々取得一方東宝田中指示撮影機材資材を船でジャカルタ運び込み、後は4月上旬予定されるクランクインを待つだけという態勢となった。しかし、1954年3月25日両社突如として合作映画の製作断念せざるを得ない状況へと追い込まれる4月5日東宝とペルフィニの両社共同声明発表し、日尼合作映画の製作断念正式に公表した3月25日にペルフィニはインドネシア外務大臣からストーリーアイデア同意できないため合作映画の製作承認することはできないとの通告受領。このインドネシア政府からの承認拒絶により、日尼合作映画の製作土壇場実現不能となった両社共同声明の中で、「確かに外務大臣反対映画のストーリー対するものではあるが、その背景には日尼両国間の政府関係悪化すなわち未解決戦時賠償問題があることも事実である」としている。 田中後年合作映画企画は非常にうまくいっていたが、まだ国交もないのに合作映画作るとは何事だと向こう大臣反対されて追い返され大変辛い思いをしたと語っている。田中急遽代替企画立てざるを得なくなった。ちょうどその頃同年3月行われたビキニ環礁での核実験第五福竜丸第十三光栄丸の被爆事件社会問題となっていた。これに着想得た田中は、「ビキニ環礁海底に眠る恐竜水爆実験影響目を覚まし日本を襲う」という特撮映画企画立てた。この時点での企画仮題は、『海底二万哩マイル)から来た大怪獣であった田中がこの企画東宝本社企画会議提出したところ、製作総指揮森岩雄目にとまることとなった戦前から東宝関わり円谷招いた本人であるが、1952年昭和27年)に公職追放解除を受け、本社復帰してハリウッド視察行い特撮映画重要性再認して、戦後解体されていた「特殊技術課」を東宝内に再編成し円谷再度招いてこの部門強化進めていた。こうして、東宝上層部が「子供騙し」として反対するなか、がこの企画賛成意見述べ強硬に支持しついにはGOサインこぎつけることとなった。 なお、監督谷口はじめとする栄光のかげに』へ参加予定していたスタッフは、映画潮騒』へスライドしており、田中もこちらと併行して企画進行していった。

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