被爆事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 04:17 UTC 版)
1954年3月1日、ビキニ環礁でアメリカ軍により行われた水爆実験(キャッスル作戦・ブラボー〈BRAVO〉、1954年3月1日3時42分実施)が行われたとき、第五福竜丸は、マーシャル諸島近海にあったが、アメリカ合衆国が設定した危険水域の外で操業していた。 乗組員らは目も口も開けられないほどの降灰に見舞われ、危険を察知して海域からの脱出を図ったが、延縄の収容に時間がかかり、約4 - 5時間、放射性降下物の降灰を全身に被り続けながら作業を行うこととなり、23名の全員が被爆した。また船体・捕獲した魚類も同様に被曝した。 その後の帰港までの2週間、乗組員は船体や人体も十分に洗浄しないまま強い放射能汚染のある状態の船上で生活をし、火傷、頭痛、嘔吐、眼の痛み、歯茎からの出血、脱毛など放射線による急性放射線症状を呈した。 また、第五福竜丸は救難信号 (SOS) を発することなく、ほかの数百隻の漁船同様に自力で焼津漁港に帰港した。これは船員が、実験海域での被爆の事実を隠蔽しようとする米軍に撃沈されることを恐れていたためであるともいわれている。 帰港したのち乗組員は「急性放射線症」と診断された。3月28日には重症ではなかった被災乗組員21名も米軍の輸送機で東京に移動して入院した。23名の被爆線量は個人により異なったが、全身線量で最低1.7グレイ、最大6.9グレイと評価された。 体の表面に付着した放射性降下物によるβ線皮膚照射で、皮膚に紅斑、炎症、水泡、糜爛(びらん:ただれ)、潰瘍が認められたが、数か月で治癒し、がん化するようなことはなかった。造血器障害は初期にはリンパ球の減少が全員に見られたが、被爆第8週から回復し始め、白血球数は約8年後に正常に戻った。生殖細胞は2 - 3か月後にはほとんど消滅したが、数年後には完全に回復した。染色体検査では、現在も異常の増加が認められているが、臨床的症状に結びつくものではなかった。甲状腺については、1965年の検査で1例甲状腺腫が認められたが翌年の検査では消えていた。その後も甲状腺腫は認められていない。その他の症例は正常な甲状腺機能を示した。 第五福竜丸被爆者22名の事故後の健康状態調査は、放射線医学総合研究所により長期継続的に行われている。また、2004年度の明石真言博士らの研究所報告によれば、2004年までに12名が死亡、その内訳は、肝癌6名、肝硬変2名、肝線維症1名、大腸癌1名、心不全1名、交通事故1名である。また、生存者の多くには肝機能障害があり、肝炎ウイルス検査では、A・B・C型とも陽性率が異常に高い。 被爆から半年後の9月に久保山無線長が死亡した際、日本人医師団は死因を「放射能症」と発表した。ただし米公文書は、久保山無線長の直接の死因は放射線ではないとの見解を出している。 放射線検査を受ける乗組員 皮膚が剥がれ落ちた乗組員の頭部
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