反戦・反核
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 10:07 UTC 版)
「ゴジラ (1954年の映画)」の記事における「反戦・反核」の解説
田中友幸はこの企画のテーマを「水爆に対する恐怖」とした。脚本を担当した村田はラストシーンの山根博士の台詞に「原水爆反対の悲願を込めた」と語っている。監督を務めた本多猪四郎は本作品のクランクインに際して「この映画で私の狙う真実は、水爆下の恐怖に戦く現代人の心理的デフォルマシオンである。破壊の恐怖と絶望がフィクションの中から心に迫り、一つの反省を与えることができれば幸いに思う」と抱負を語った。また、後に本作品について「私自身も思いもよらぬ影響を与えた作品であり、良いにつけ悪いにつけ『ゴジラ』は私の人生を大きく決定づけた」と述べている。 本多猪四郎は戦後、中国の天津から復員し門司を経て汽車で東京へ帰る途中、原爆による被害で廃墟と化した広島の街を見て大きな衝撃を受けていた。そのため本多は制作するに当たり、田中、円谷と3人で「撮影に当たり我々自身、決して荒唐無稽の怪獣映画との照れの気持ちを持たないこと。原爆の驚怖に対する憎しみと驚きの目で造っていこう、現に目の前に原水爆実験で蘇生した、とてつもない怪獣が日本へ東京へ現れたらどうするか、その現実感の狙いを忘れないで撮影しようとかたく申し合わせた」と著している。また、本多は本作品の制作に際して被爆地や病院の見学も行っている。 実際の演技指導に当たっても、その方針の通り円谷と入念に打ち合わせを行い、ゴジラを前にした演技者たちの目線の統一を徹底することで画面にリアリズムを持たせている。公開時には「生き物が火を吐くわけがない」として『ゴジラ』をゲテモノ扱いするマスメディアの評価もあったが、本多は「放射能が炎でないことはわかっている。しかし、目に見えない放射能を目に見える形で描かないと核の恐ろしさは伝わらない。つまり、あれは映画的な嘘である[要出典]」「実際には目に見えない放射能を可視光線として表現しても、観客は感覚的に納得していた」と述べている。また、本多は「いちばんの被害者はいつも民衆である。この映画の原イメージは、自らの戦争体験である」としている。 こうして本多は一貫して「真正面から戦争、核兵器の怖ろしさ、愚かさを訴える」というドキュメントタッチの演出姿勢を貫き、作品に単に時勢に乗って作られた怪獣映画に終わらせない普遍性を持たせており、第五福竜丸の被爆事件のみならず菅井きん演じる婦人代議士や戦災遺族・孤児、疎開、警察予備隊から再編成された保安隊の登場など、随所に当時の時代背景を象徴するファクトを織り込んでいる。当時は造船疑獄、犬養健法務大臣の指揮権発動などもあり、吉田茂内閣や政治への不信感が国民の間に高まっていた時代だった。助監督として参加した梶田興治によると、そうした時代背景からかゴジラが国会議事堂を破壊したシーンでは観客が立ち上がって拍手をしたという。
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