反戦主義からダダイスムへ
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「エルヴィン・シュルホフ」の記事における「反戦主義からダダイスムへ」の解説
第一次世界大戦でシュルホフはオーストリア軍に徴兵されて従軍したが、その経験から自身の信条として反戦主義的な考えを持つようになった。この徴兵経験は、シュルホフの政治的立場だけでなく文化的、芸術的な物の見方にも大きく影響を及ぼし、戦後はナショナリズムへの反発や軍隊への反対意識がより深く、過激なものとなった。シュルホフは第一次世界大戦後に、フランスの左派の活動家であるアンリ・バルビュスが率いる平和主義運動「クラルテ」を支持し、画家であるジョージ・グロスやオットー・ディクス、ハンス・アルプらが活動している急進的なダダイスム運動のメンバーに加わった。また同時期にアルバン・ベルクと文通を始め、ドレスデンやプラハでの演奏会でベルクの曲を取り上げた。1919年からは、シェーンベルクらが開催していた私的演奏協会に参加し、自らの楽曲などを演奏した。 「文化を守れ!」と叫ぶ一方で、人々が殺されそうになっている、こんなことは私にとっては痛ましく悪趣味なことだ。私は、1914年、1915年、そして1916年は人間のレベルが最も低い年であるし、もっと率直に言うと、この3年が20世紀を台無しにしている、と主張する。私自身も兵士であるが、それでも私はそう主張する。The popular cry 'Saveguard your culture', while men are being killed, is for me painfully tasteless. i maintain that the years 1914, 1915 and 1916 are on the lowest human level, and quite frankly make a mockery of the twentieth century. I say this, even though I am a soldier myself. — エルヴィン・シュルホフ、1916年1月8日の日記より 1921年に Alice Libochowitz と結婚。1922年にはベルリンに移住したが、その翌年の1923年にはプラハに戻り、ピアニストや作曲家として精力的に活動した。1920年代なかばごろには、シュルホフは「ダダの」作曲家として世に知られるようになり、前衛的な作曲家として、あるいはその曲の演奏者などとして、当時の前衛音楽の最前線に立っていた。各国のあらゆる現代音楽の音楽祭でシュルホフの音楽が聞かれ、エーリヒ・クライバーやエルネスト・アンセルメ、ピエール・モントゥー、ジョージ・セル、ヴァーツラフ・ターリヒなどがシュルホフの作品を指揮した。楽譜もマインツやロンドン、ウィーンなど各地の出版社から次々と出版され、1920年代の半ば頃には、ウィーンで最も多くの楽譜を出版した作曲家の一人となっていた。シュルホフ自身も、1913年にメンデルスゾーン賞を受賞するなどピアノの腕は高く評価されており、プラハを始めドイツの多くの都市や、フランス、オランダなど、ヨーロッパの広い範囲で演奏を披露した。ラジオ放送でも演奏を披露し、チェコのラジオ局をはじめBBCやWDRで、チェコの作曲家の作品や自作曲を放送した。またシュルホフがピアニストとして自作曲を演奏したライブの一部については録音されており、ピアノ協奏曲を含む自作自演の録音が残されている(一部の音源については、デッカの「退廃音楽シリーズ」からCD化されている)。特にジャズを取り入れた「ジャズ様式の5つの練習曲」(1926年)、「ジャズ様式のエスキス」(1927年)、「ホット・ミュージック」(1928年)などは軒並み出版され、ヨーロッパ各地で行われた演奏会では、例外なく成功を収めたとされる。またプラハで興った前衛芸術活動である解放劇場(英語版)とも何度か演奏を行った。 シュルホフは作曲家、演奏家としてだけでなく、文筆家や講演家としても人気を博した。1924年から1926年にかけては、プラハの新聞である「Prager Abendblatt」誌の音楽記事を扱う記者としても活動。特にシェーンベルクについては数多くの記事を残している。 なおこの時期にシュルホフはプラハのドイツ音楽アカデミーの教員に何度か申し込んだが、結局そのポストは得られなかった。
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