反戦映画としての評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 18:18 UTC 版)
「この世界の片隅に (映画)」の記事における「反戦映画としての評価」の解説
本作、及びこうの史代の原作漫画に寄せられた評価の中には、「声高な反戦のメッセージ性がないからこそ素晴らしい作品である」「反戦作品ではない」「左翼的でないから良い」という趣旨のものも少なからずあった。こうした意見はネット上で交わされる言論に多く見られ、中沢啓治による漫画『はだしのゲン』のような、反戦をテーマにした従来の作品との比較の中で立ち現れることが多い。また、同様の評価は原爆投下後の広島を舞台にしたこうのの前作『夕凪の街 桜の国』に対しても寄せられている。一方、そうした意見に対しては少なからず反論もある。 コミュニスト・左翼を自称する漫画評論家の紙屋高雪は、こうのによる原作漫画を、反戦をテーマにした過去の漫画作品と比較することで「反戦漫画ではない」という言説を検証し、原作漫画について、過去の反戦作品で脈々と語られてきたテーマを「戦争による居場所の喪失」などといった独自の切り口で語り直したものと位置づけ、戦後日本の平和運動や反戦思想と無縁の作品ではないと評した。また、映画評論家の小野寺系は、本作に対する「反戦映画でないから良い」というような一部の見解は、それまで戦争映画をあまり観たことがなかったような観客層が抱く「戦争映画はひたすら陰鬱で面白味のない作風で描かれているものばかり」という先入観によるものであるとし、木下惠介監督による1954年の映画『二十四の瞳』などを例に、戦争を俯瞰せず生活者の実感という目線で描くことや、そこにユーモアを交えること自体は古くから今まで数多くあるテーマであり、本作を従来の戦争映画の流れに沿ったものであるとした。大衆文化研究者の森下達は原作漫画について、原作者のこうのが「紛れもない生活(ギャグ)漫画」と称していることを踏まえつつも、原作が日常に重きを置いていることは社会的な広がりを欠いていることを意味しないとし、戦争という大きな歴史の流れが、別々の人生を歩んできた登場人物たちを一様に巻き込み、日常を侵食していく様子を描いていることを指摘した。 映画では、終戦の日を迎えたすずが太極旗を見て泣き崩れる場面の台詞が原作から変更されており(詳細は「#原作との相違点」を参照)、原作では韓国併合のことを示唆する台詞であったものが、映画では輸入米の話になっている。監督の片渕は映画におけるすずの台詞を、自分が食べていた米が朝鮮米であることに思い至る描写で、日本の植民地支配について直接触れる台詞であるとしており、すずが泣き崩れるのも、今まで国を挙げての戦争を肯定していた自分を薄みっともなく思って泣いたのだという解釈で描いたと述べている。映画評論家の町山智浩によれば、終戦の前年は朝鮮半島では災害による大飢饉があったにもかかわらず、日本は朝鮮から希少な米を取り上げて本土へと送っており、すずの台詞にはそのような歴史的背景があるとしている。一方、映画では原作と比べて太極旗の意味が分かりにくいものになっており、産経新聞はこの場面を「原作通りに旗を出したが、そこに政治的な意図を込めたくなかった」のであろうと評した。監督の片渕は、映画版での台詞が植民地支配について触れるものであることに気がついてくれる人はあまりおらず、そこに言及してくれたのは町山くらいであったとも述べている。 終戦の日に掲げられた太極旗の描写について、観客の間では解釈を巡る論争があった。一方には、これをすずたちが住む呉でも在日朝鮮人が日本人と共に戦火に巻き込まれながら暮らしていたことを表すもので、植民地支配からようやく解放されたという意味で掲げたものだと解釈する意見がある。アニメ評論家の藤津亮太は、終戦の際に太極旗を掲げた家が、映画ではそれ以前の場面にも兵士を送り出す舞台として登場していることを指摘し、これを原作にあった「暴力で従えとった」というすずの台詞をさりげなく補完するものだと評している。『日本会議の研究』などの著作で知られ、かつて「レイシストをしばき隊」に参加した過去もある著述家の菅野完は映画について、「銃後の小市民」たちが戦争の被害者であると同時に加害者でもあるという、これまでの戦争を扱った従来の日本映画に欠けていた視点を鋭くえぐり出す作品であるとして高く評価した。一方、日本映画大学の准教授で在日韓国人の文化を専門分野とする社会学者のハン・トンヒョンは、原作は読んでいないとしつつも映画版の感想として、日本人の加害者性に関して何の伏線もなく登場する太極旗は、単なるエクスキューズ(言い訳)に留まるものであり、悪しきポリティカル・コレクトネスの例とも言うべき蛇足なものとして批判した。 他方、Twitterに寄せられた感想の中にはこの太極旗を、「在日特権を許さない市民の会」などが実在を主張している朝鮮進駐軍(=朝鮮人による武装蜂起)に関連した描写として解釈し、それを「単なる(左翼的な)反戦作品ではない」理由に挙げて賞賛する意見もあった。このようなネット上の解釈を否定的に取り上げたニュースサイト『LITERA』の記者酒井まどは、徹底的な時代考証の元で制作された本作が、ネット右翼が広めた朝鮮進駐軍なる真偽の怪しい陰謀論を採用するはずがないとし、原作にもあった太極旗の描写は、こうのの前作『夕凪の街 桜の国』に対して寄せられた「日本人の不幸しか描かれていない」という批判に対する回答であろうと推察した。なお本作の原作漫画で戦争責任の問題がはっきり描かれていない理由について、原作者のこうの自身が語るところによれば、当時の人々を悪しざまに描けば、読者は「この時代の人はこういうことをやっているからダメなんだ」と他人事のように受け取ってしまうと考え、特定の誰かを糾弾する描写を排除したためであるとし、庶民が罪の意識も責任感も持たないまま簡単に戦争に転じていく様子を現代に伝える意図があったとしている。原作漫画で日本人による中国人や韓国人に対する差別が描かれていないのも、被差別者に対して優しい主人公を免罪符のように描けば、読者に対して「自分だけは悪くない」という逃げ道を与えてしまうことになるため、そのような描写を避けた結果であるとしている。 アニメ評論家でありインターネットと保守にまつわる問題も専門としている文筆家の古谷経衡は、中沢による漫画『はだしのゲン』を本作と比較し、『はだしのゲン』における主人公・ゲンの主張は正論ではあるものの、原爆症を克服し社会と戦うゲンの姿があまりに超人的に描かれているために感情移入できず、他人事の主張として認識してしまうため、戦後教育を受けながらも戦争を美化して捉えているような層には主張が伝わらなかったと批判し、それに対して本作の主人公すずは、自分たちと同じ皮膚感覚を持った人間として感情移入できるとして称賛した。漫画家・漫画評論家のいしかわじゅんは、『はだしのゲン』と本作を二者択一で評価するような論調には違和感を感じるとしつつも、戦争の描き方としては対照的であるとした。いしかわは、『はだしのゲン』の場合は執筆当時の作者にとって戦争の記憶が生々しく、自身の戦争体験を咀嚼して作品に反映する余裕がなかったのに対し、本作の場合は原作者のこうの自身が戦争を体験していなかったために、ストレートに主張をぶつけるような形で戦争を描くことこそできなかったが、それゆえに多くの人々に伝わる作品になったのだと分析した。一方、フランス文学者で漫画研究家の中田健太郎は、前述の本作における戦争責任の問題に関連したこうのの発言を引きつつ、『夕凪の街 桜の国』などのこうの作品が声高でない戦争批判に見えることは、戦争批判が控えめであることを意味せず、資料を駆使して作者自身が直接体験したことがない時代の人間像に迫り、敵と味方を分けて政治を論じるような安易な言説を潜り抜けて書くことこそが、こうのの作品全般における政治性であり、譲れない願いを込めた戦争批判なのだと評した。 漫画『ディエンビエンフー』などを手掛けた漫画家の西島大介は、原作者であるこうのとの対談の中で、原作漫画が「反戦」「平和」といったわかりやすい題材に加えて「戦争の面白さ」も扱っているとしつつも、それが空襲によって完膚なきまでに破壊されてしまう末路まで描いていることを指摘し、一周回って共感する部分が多いとした。こうのは西島との対談の中で、戦争の悲惨さだけを語っても悲惨な話が好きな人にしか伝わらず、人間が戦争に惹きつけられてしまう理由を描くには、戦争の魅力も同時に描かなければならないのだとした。テレビアニメ『機動戦士ガンダム』などを手掛けたアニメ監督の富野由悠季は、本作の監督である片渕との対談の中で終戦の場面にも触れる中、主人公・すずの言動が戦争の窮状に伴って右翼的になっていくことを指摘しつつ、こうした状況は各国の戦争で見られるものであるとし、女性も男の論理をもって戦わざるを得ないという状況に至るまでの統治や国際関係について、考えたり議論したりする叩き台として優れた映画であると評した。
※この「反戦映画としての評価」の解説は、「この世界の片隅に (映画)」の解説の一部です。
「反戦映画としての評価」を含む「この世界の片隅に (映画)」の記事については、「この世界の片隅に (映画)」の概要を参照ください。
- 反戦映画としての評価のページへのリンク