反戦言動
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以上のように、彰元は生まれてからその半生を通して真宗大谷派(東本願寺)の宗門人として順調に経歴を重ねた模範的な僧侶であった。しかしながら、1931年(昭和6年)の満洲事変勃発後、軍国化する世相の中で、真宗大谷派が1936年(昭和11年)10月に真宗聖典『御伝鈔』の一部の削除を決定し、また、第二十四代東本願寺法主闡如がそれまでの神祇不拝の伝統を破って同1936年12月2日に明治神宮を、12月4日に靖国神社を、翌1937年(昭和12年)1月8日に伊勢神宮を参拝したことなど、国策追従のために浄土真宗の教義を捻じ曲げていたことが、彰元の心境に変化を及ぼしていたのではないかと大東仁は推測している。 1937年(昭和12年)7月7日に盧溝橋事件が勃発し、処理に当たった近衛文麿首相が中華民国への軍事介入を決め、この日中戦争の全面開戦に際して、真宗大谷派は盧溝橋事件勃発翌日の7月8日に早くも開教師伊藤勝隆に「北支事変支那駐屯軍従軍布教」を命じ、政府が7月12日に正式に大谷派に協力を要請する以前から既に、率先して中国との戦争に協力する態度を示していた。 竹中彰元は事変勃発後、1937年9月15日に出身地の岩手村の在郷軍人に対して戦争を批判する旨を述べてその反戦姿勢を村民から「痛罵難詰」され、更にこの言動で村民から非難された後も、翌10月10日に近隣の仏教寺院で僧侶6人に対して「戦争は最大な罪悪だ」と述べた。この10月10日の反戦言動を聞いた僧侶が翌10月11日に岩手村役場に通報し、この通報がきっかけとなって10月26日に彰元は逮捕され、10月31日に9月15日の発言と10月10日の発言が陸軍刑法第99条(造言飛語罪)に抵触するとして岐阜地方裁判所に送致された。 翌1938年(昭和13年)3月12日に岐阜地方裁判所は竹中彰元に対し、禁固4ヵ月の実刑判決を下し、この判決に彰元が控訴したため、4月27日に名古屋控訴院は禁固4ヵ月、執行猶予3年に刑を軽減する判決を下した。なお、この判決には1940年(昭和15年)2月11日に皇紀2600年を記念して恩赦が認められ、禁固2ヵ月20日、執行猶予3年に刑を減免されている。 彰元が属していた真宗大谷派は1938年(昭和13年)4月27日の名古屋控訴院による判決後、特別黜罰により「軽停班3年」の処分を下して僧侶の位を最低に落とし、また、彰元の布教使資格を剥奪した。なお、大谷派は1940年(昭和15年)5月18日に軽停班処分を満期とする処分の減免を実施し、1941年(昭和16年)4月17日に彰元の布教使資格を復活している。同時期に彰元が処罰された陸軍刑法よりも重い治安維持法で検挙された浄土宗の林霊法や日蓮宗の大隈実山、細井宥司が、浄土宗や日蓮宗から教団としての処分を受けていないことに比べると、真宗大谷派による竹中彰元への処分は他宗派よりも重いものであった。
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