反戦青年委員会への姿勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 19:01 UTC 版)
江田は構造改革派として「右派」に位置付けられているが、世界的に学生運動が高揚する中で、当時社会党書記だった高見圭司が結成した反戦青年委員会については「彼等は世界中のステューデントパワーの流れと共通した原理で動いている。そのエネルギーを生かさなければならない」と評価している。当時、反戦青年委や学生運動に対し、日本共産党は排除し、総評は批判的であった。社会党は心情的には支持する面が強かったが、社会主義協会からは常に批判の対象となっており、反戦青年委を評価する江田もまた協会や佐々木派から攻撃されていた。 江田は反戦青年委における高見の行動を「やんちゃ」としながらも評価しており、高見が『反戦青年委員会』という本を出版した時も、江田は「(買うので)20冊持って来い」と呼びかけるなど支援の態度を示していた。しかし、反戦青年委員会の行動に対する社会主義協会からの批判が強まると、江田も批判勢力に転じる。1970年の第33回大会では、反戦青年委員会に関わる書記職員10人を除名(解雇)する。高見は「江田さんは心ならずして反戦派を切った」と述べ、恨むことはまったくなかったという。
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