反抗と自殺未遂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 07:10 UTC 版)
1911年(明治44年)、野町小学校尋常科を優秀な成績で卒業し、石川県立金沢第二中学校に進学。ここでも良い成績をおさめていたが、教師に対して反抗的な態度をとることも多く停学処分を数回受けている。13歳の時には「自分の天才が世に認められない」との理由で自殺を図った。未遂に終わったものの、自ら「天才に学校の器が合わない」と感じ、1912年(明治45年)春、縁故のつてで上京、高輪の信託事業家(東京信託株式会社専務取締役)・岩崎一の邸に寄宿し明治学院普通部に転入、母も女中頭として住み込むこととなった。ここでも2番という優秀な成績を修め、校内雄弁大会でたびたび1位となったり学外の弁論大会にも出場し、少年時代の中西悟堂、加藤勘十らと覇を競うなどの早熟を示した。ところがここでも母の再婚話を容れられず悶着を起こし、実業家と争い1人金沢に戻った。
※この「反抗と自殺未遂」の解説は、「島田清次郎」の解説の一部です。
「反抗と自殺未遂」を含む「島田清次郎」の記事については、「島田清次郎」の概要を参照ください。
- 反抗と自殺未遂のページへのリンク