反抗と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/06 02:24 UTC 版)
ドゥリープ・シングはその晩年、キリスト教からシク教への改宗を強く望むようになったが、1886年にイギリス当局はこれを拒否した。 そのため、同年にドゥリープ・シングは家を売却し、イギリスからパンジャーブへと帰還しようとした。とはいえ、彼はイギリス領であったインドへはもどらず、ひとまずフランスへと逃げ、そこで自身の王位の正当性をフランス当局に訴えた。 1888年、ドゥリープ・シングはシク教に改宗したものの、イギリスの妨害によりフランスでの活動はうまくいかず、ロシアへと赴いた。彼はロシア皇帝アレクサンドル3世にインド侵攻を要請しようと計画したが、まもなく極貧の状態に陥り、のちにヴィクトリア女王の恩赦を受けた。 1893年10月22日、ドゥリープ・シングはフランスの首都パリで死亡した。55歳だった。彼は生前、自身の遺体はインドに埋葬されることを望んでいたが、これもまたイギリスに拒否され、結局遺体はイギリスのエルブデンにあるキリスト教会に埋葬された。
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