反抗・暴動の多発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:11 UTC 版)
17世紀には、戦争のみならず、時の政治体制、特に絶対王政に反抗して一揆、暴動、革命も多発した。 とりわけ、1640年代から1650年代にかけてはそれが集中した。1640年、バルセロナを中心とするカタルーニャではスペイン絶対王政からの分離運動(「収穫人戦争」)が起こり、同年、ポルトガルでもスペインからの独立運動であるポルトガル王政復古戦争(喝采戦争)が起こった。1641年には、アイルランド・カトリック同盟(キルケニー同盟)によるイギリス絶対王政に対する反抗、アイルランド反乱(英語版)が起こり、それはアイルランド同盟戦争(英語版)(1641年-1653年)へと発展した。一方、スコットランドでもチャールズ1世の宗教政策に対する主教戦争が1639年、1640年の2度にわたって起こり、1642年にはイングランドでもピューリタンを中心とする議会勢力が王党派と軍事衝突、イングランド内戦へと発展した(清教徒革命)。 スペインの属領であった南イタリアでは1647年、ナポリでマザニエッロ(英語版、イタリア語版)の一揆が起こっている。1648年、アレクセイ・ミハイロヴィチ治世下のモスクワ(ロシア・ツァーリ国)では、塩一揆(英語版、ロシア語版)が起こり、アレクセイの傅育官で政権を担当したボリス・モロゾフ(英語版、ロシア語版)が追放された。1648年から1657年までの間、ウクライナではポーランド・リトアニア共和国の支配に反抗する農奴蜂起、フメリニツキーの乱が起こっている。これは、ボフダン・フメリニツキーを首領とするウクライナ・コサックを中心とする武力蜂起で大規模な戦争に発展した。フランスで王政に対して貴族たちが反旗を翻したフロンドの乱が起こったのも1648年であった。フロンドの乱の前半は、パリ高等法院と宰相ジュール・マザラン、摂政アンヌ・ドートリッシュの対立を軸に展開し、パリ市民への新税創設や官職保有者の給料切り下げ、官職新設による従来の官職の権限縮小などに対する不満に端を発している。後半は、前半の戦闘で功臣となったコンデ親王ルイ2世が王権に対して過大な要求を突きつけ、それに同調する高等法院フロンド派が策動、一方、パリに参集した帯剣貴族たちが全国三部会の召集を要求するという展開をみせた。この乱は、フランスにおける最後の大規模な貴族反乱であり、国土の荒廃を招いた。また、フランスのスペインに対する勝利を5年遅らせる結果となった。 17世紀後半の反乱・革命には、ロシアにおけるステンカ・ラージンの乱(1670年-1671年)、1680年のボヘミア大農民反乱、イギリスにおける名誉革命(1688年)などがあり、18世紀前葉にはラーコーツィの独立戦争(1703年-1711年)が起こっている。ラーコーツィ・フェレンツ2世によって指導されたハンガリーの反乱は、ハプスブルク帝国の絶対主義に反対し、帝国からの分離独立を目指すもので「クルツ運動」とも称される。 その多くは、中央政府が地域の事情を覆すような宗教政策を地域住民に強制した場合、あるいは、増税や新税設置を住民に求めた場合に表面化した。こうした社会的反抗は、西ヨーロッパに比較して東ヨーロッパの方が、概して規模も大きく期間も長きにわたる傾向がみられるが、その理由としては、東欧の方が厳しい気候にさらされ、飢饉の際の農民生活の破綻が深刻だったことが挙げられる。ただし、単に経済的・社会的要因のみならず、民族感情や宗教の相違など複雑な背景に起因することが多いので、個々に検討していかなければならない。 反抗の結果については、その目的を遂げた実例は少なく、残念な結末に終わることが多かった。それにはさまざまな理由が考えられ、農民・民衆の自らの利害に関する無自覚、都市ブルジョワの未成長、弱体な指導者層、一貫した目標や戦略の欠如、外国勢力への安易な期待や依存などが指摘できる。しかし、失敗の原因は必ずしも反抗者側自身の力量不足に収斂されるものではなく、時として感染症の流行など他律的な要因も考慮する必要がある。たとえば、アイルランド反乱、清教徒革命、フロンドの乱などはペスト、発疹チフス、天然痘の流行と切り離して考えることはできない 感染症の流行が反乱の帰趨に決定的な影響を与えた典型的な例としては、カタルーニャの収穫人戦争(1640年-1659年)がある。バルセロナを中心とするカタルーニャは、スペインにあって独自の言語や伝統文化を有する有力な地域であるにもかかわらず、王権から不当に扱われることが多く、スペインの政治統合において犠牲を強いられてきたことを不満に思う人が多かった。三十年戦争においてスペインと交戦中のフランスは1640年、敵国の戦力分断をねらって自国に隣接するカタルーニャ援助の方針を打ち出すと、カタルーニャの農民や民衆はバルセロナの都市貴族と連合し、カタルーニャ共和国の成立を宣言して、しばらく独立を保持した。しかし、1651年、スペイン王権が本格的な反撃に打って出ると存亡の危機に立たされた。このとき、バルセロナ市会は防衛戦を決議して周辺住民も動員、籠城体制に入ったが、ちょうどそのころ市内ではペストが流行し始め、スペイン軍による包囲(「バルセロナ包囲戦(カタルーニャ語版、英語版)」)の中で疫病が蔓延した。数か月後、応援のフランス軍が到着したものの今度は援軍の持ち込んだペストが再流行して、その間飢饉も発生して多数の死者が現れた。困憊の極に達したカタルーニャは結局、1652年10月に投降し、分離運動は瓦解した。
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