主教戦争
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主教戦争(しゅきょうせんそう、英: Bishops' Wars)は、イングランド・スコットランドにおいて、宗教問題が原因で起こった戦争である。イングランド王兼スコットランド王チャールズ1世がイングランド国教会の形式にもとづく祈祷書と監督制をスコットランドに強制したことが原因で、1639年(第1次)および1640年(第2次)の2度起こった。この戦争は2度ともスコットランド側の勝利に終わり、清教徒革命の原因の1つとなった。名称は監督制の別名・主教制に由来する。
- ^ 浜林、P85 - P87、今井、P187 - P188、トランター、P271、清水、P31。
- ^ a b c d 松村、P75。
- ^ 浜林、P87 - P88、今井、P188、トランター、P271 - P272、清水、P31 - P32。
- ^ 浜林、P88 - P89、今井、P188 - P189、トランター、P273 - P275、清水、P32。
- ^ 浜林、P89 - P91、今井、P191、清水、P33 - P34。
- ^ 浜林、P91 - P92、今井、P192、清水、P34。
- ^ 浜林、P96 - P100、P104 - P113、今井、P192 - P197、清水、P35 - P40、P45 - P51。
- ^ 浜林、P138 - P141、今井、P203、トランター、P275 - P277、清水、P60、P74、P76、P94。
主教戦争
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詳細は「主教戦争」を参照 第1次(1639年)および第2次(1640年)の主教戦争によってイングランド王室は財政の限界に達し、親政を中止して議会を召集せざるをえなくなった。これがイングランド議会と国王の対立を招いた一因とされる。 スコットランド内はほぼ盟約派として団結し、祈禱書の停止を議会で宣言した。さらにイングランドのチャールズ1世に主教戦争を挑み、両軍はイングランド北端、トゥイード川河口のベリックで対峙した。これは結局対峙しただけでチャールズ1世が和議を申し込み、1639年6月18日にベリック条約が成立した。 条約が成立したものの、チャールズ1世は主要な対立点である宗教問題について譲歩しなかった。それだけでなくカトリックの有力氏族であるハントリー侯爵ジョージ・ゴードン(英語版)を北方長官に任命し、スコットランドに主教制度の浸透をはかった。必然的にスコットランド盟約派はふたたび軍をおこし、モントローズ侯がディー橋の戦いで国王派を破りハントリー侯を捕らえた。これによって、第2次主教戦争が始まった。 盟約軍の南進の報がイングランドに届いたが、短期議会で課税承認に失敗し財源がほとんど無いチャールズ1世には軍をしたがえるだけの資金が底をついていた。盟約軍がニューバーンの戦いでイングランド軍を破り、ニューカッスル・アポン・タインを占領したところでチャールズ1世が和平をもとめてやってきた。こうして締結されたリポン条約は賠償金の支払いが盛り込まれた。これがイングランド財政をいよいよ払底させ、長期議会召集につながることになった。 主教戦争が一段落すると、スコットランド議会は国政の中心機関となり、さまざまな議会改革が進められた。この改革がイングランド長期議会での改革および大抗議文のモデルとして採用された。またスコットランドは1641年8月に批准されたロンドン条約で将来の国家構想を提案、イングランドと対等な関係を築き、両国の議会が王権を制限しながら政治・軍事・外交などを相互協議で行う連邦制を望んだが、イングランドからは未回答と先送りの返事だけであり実現しなかった。
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