同君連合から合同へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 04:39 UTC 版)
「スコットランドの歴史」の記事における「同君連合から合同へ」の解説
詳細は「合同法 (1707年)」を参照 エディンバラからウェストミンスタに移ったステュアート家の王たちは、ほとんどスコットランドに戻ろうとしなかった。スコットランドには担当国務大臣をおき、それが摂政となって行政にあたることとなった。この転機は、三王国戦争(Wars of the Three Kingdoms、清教徒革命)によってもたらされた。監督制教会のイングランドと長老制のスコットランドは教義をめぐって衝突し、主教戦争からスコットランド内戦(英語版)、そしてクロムウェルによるスコットランド征服という事態を招いた(イングランド内戦)。このとき共和政イングランドが施行した航海条例がスコットランド経済に打撃を与えた。この条例によって、スコットランドも外国とみなされ、ロンドンや植民地の港から締め出されたのである。スコットランドの経済は徐々に衰え、困窮にあえぐようになった。 1688年の名誉革命は、スコットランドにとってはイングランド議会が「勝手に」王をすげかえる暴挙であった。スコットランド議会は安全保障法(1704年)によって独自に王を立てる権利を有するという宣言を発した。これに対してイングランドは外国人法(1705年)で応酬した。すなわち、合同に同意しなければ航海法体制にくわえて、ヨーロッパとの交易も制限するとしたのである。人口で5倍、経済力で38倍の相手に対抗できたのはここまでであった。スコットランドはイングランドの軍門に降った。
※この「同君連合から合同へ」の解説は、「スコットランドの歴史」の解説の一部です。
「同君連合から合同へ」を含む「スコットランドの歴史」の記事については、「スコットランドの歴史」の概要を参照ください。
- 同君連合から合同へのページへのリンク