同君連合の解消
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 11:27 UTC 版)
「ルクセンブルクの歴史」の記事における「同君連合の解消」の解説
1890年、ルクセンブルク大公兼オランダ国王のギヨーム3世が男子の後継ぎの無いまま世を去った。オランダ王位は娘ウィルヘルミナが継いだが、ルクセンブルク大公位には女子が継承するという規定がないために、結局ナッサウ=ヴァイルブルク家のアドルフが継ぐこととなった。ルクセンブルク国民は、元はドイツの領邦君主ナッサウ公(普墺戦争により取り潰された)であったアドルフの即位によってドイツの影響が強まることを懸念したが、アドルフと息子ギヨーム4世、さらにその娘マリー=アデライードの間、ルクセンブルクの独立は保たれ、歴代大公は伝統を尊重してフランス語の習得まで行った。そのため、ルクセンブルクはオランダとの決別に成功し、新たな「ルクセンブルク家」はそれまでのオラニエ=ナッサウ家と違い、ルクセンブルクに定着することとなった。また、ルクセンブルクではドイツへの併合の懸念から、それまでのルクセンブルク語が「ルクセンブルクで話されるドイツ語」であるという概念を否定し、議員のミッシェル・ウェルターは「我々は外国語であるフランス語、ドイツ語らを習得することはできない、我々の母国語はルクセンブルク語である」と発言、ルクセンブルクにおけるアイデンティティが確立されていった。
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