ドイツへの併合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/09 17:13 UTC 版)
「ミュンヘン会談」および「ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体」も参照 チェコスロバキア大統領ベネシュはドイツとの交渉を拒否したものの、ドイツ総統ヒトラーはたびたび声明でズデーテン問題解決を訴えた。さらにヘンラインとフランクに「チェコスロバキア政府が受け入れられない要求」を行うよう指示した。ホジャ首相とヘンラインはたびたび交渉するも、ヘンラインはその都度拒否した。1938年5月にはドイツ軍がチェコ国境に展開しているという誤報が流れ、チェコスロバキア側は対抗して軍を動員した。また同時期の地方選挙ではズデーテン・ドイツ人党がドイツ人居住域における9割の票を獲得している。選挙後の8月14日にはベネシュ大統領が交渉に参加し、自治権を認め譲歩するも、ヘンラインはドイツに亡命し交渉を決裂させた。 1938年9月30日のミュンヘン会談では宥和政策を取るイギリスのネヴィル・チェンバレン首相、フランスのエドゥアール・ダラディエ首相がズデーテン地方のドイツ編入を容認した。ズデーテン地方のチェコ人やユダヤ人、軍官吏は退去を余儀なくされ、1939年7月1日までに約22万人の難民(うち1万人はドイツ系)が併合地域からチェコに逃れ、多くの財産を置き去りにせざるを得なくなった。一方で共産党員やチェコスロバキア共和国ドイツ人社会民主党員の一部はチェコ官憲によって送還され、終戦までの期間を含めて7677人がドイツによって逮捕された。
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