ドイツへの移住、クン政権の崩壊
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「ルカーチ・ジェルジュ」の記事における「ドイツへの移住、クン政権の崩壊」の解説
1911年から1912年にかけての冬、フィレンツェに滞在していたルカーチはブロッホからドイツのハイデルベルクに移るよう勧められる。1912年にルカーチは思想の理解者を求めてブダペストを離れ、ハイデルベルクに移住した。ハイデルベルク時代、ブロッホを通してマックス・ウェーバーと知り合い、ウェーバーは「ルカーチと話すと、そのことについて何日も考え続けなければならなかった」と高い評価を受ける。1917年までドイツ各地の大学で美術と美学を研究し、特にヘーゲルの思想を深く追求したが、当時のルカーチは政治に興味を持っていなかった。新カント派からはいくつかの考え方を学んだが彼らに属することは無く、非合理主義哲学からの影響はまったく受けなかった。 第一次世界大戦期にルカーチはドイツで教鞭を執っていたが、戦争に熱を上げるドイツ知識人の姿を目にして次第に思想を左派的な方向に転換していく。1915年から1916年にかけてルカーチはブダペストに予備兵として召集され、小さな集団が形成された。ルカーチと彼の知人である著作家バラージュ・ベーラを中心としてグループの輪は広がり、「精神科学自由学院」と呼ばれる一派が形成された。マンハイム・カーロイ、ハウゼル・アルノルドらの自由学院出身者は後に国際舞台で活躍するが、ルカーチ自身は自由学院の影響力を高く評価する意見に懐疑的で、少なくとも自由学院は自身の思想に影響を及ぼさなかったと述べた。第一次世界大戦、ロシア革命はルカーチに大きな衝撃を与え、彼をマルクス主義者に転換させた。 1918年、ハンガリー革命に際してブダペストに戻り、革新的知識人の指導者として文化革新運動に従事し、ハンガリー共産党に入党する。1919年に成立したクン・ベーラのソヴィエト政権において、ルカーチは教育文化相を務める。「教育による大衆への文化の普及」というユートピア的視点に基づく政策を実施し、八年制の小学校の設立、労働者大学の開設、図書館、美術館、劇場といった文化施設の一般開放がクン政権で行われた。教育改革の実施にあたってルカーチはバラージュ・ベーラ、バルトーク・ベーラ、コダーイ・ゾルターンら当時の高名な知識人の協力を仰ぎ、政治思想を思想・芸術に持ち込まない開放的な流れを志向した。 1919年8月に共和国が崩壊した後も、党の指令を受けてルカーチはブダペストに留まり、非合法活動に参加した。9月末まで女流写真家のオルガ・マーテーの家に潜伏して党の活動に従事していたが、逮捕の危険が身に迫るに及び、友人である彫刻家の仲介によってイギリス将校の協力を得、ハンガリー国外に亡命する。ルカーチの父ヨージェフは革命のために資産の大部分を失っていたが、息子の亡命に際して多額の借金を背負い、イギリス将校の要求する謝礼を支払った。
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