ドイツへの転属
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 09:28 UTC 版)
「ハインリヒ・エールラー」の記事における「ドイツへの転属」の解説
指揮権と全ての栄誉を剥奪され、エールラーは1945年2月27日に第7戦闘航空団(JG 7)に配属された。JG 7はメッサーシュミット Me262ジェット戦闘機を装備し、本土防衛(Reichsverteidigung)に携わっていた。続く5週間の間にエールラーは更に8機の戦果を挙げ、総撃墜数を208機とした。 1945年4月4日の朝にエールラーは最後の出撃で208機の最後の2機の戦果を記録した。僚機と共にJG 7のブランデンブルク=ブリースト飛行場を離陸したエールラー少佐は、パルヒムへの爆撃行程に入るために編隊を組み始めた第448爆撃団(the 448th BG)とハンブルクの東50 km の上空で会敵し、先導する第714飛行隊の2機のコンソリデーテッド B-24 —シャフター中尉(Lt. Shafter)の「ミス・B・ハヴィン」(Miss-B-Havin)とメインズ中尉(Lt. Mains)の「レッド・バウ」(Red Bow)—を撃墜した。この攻撃と同時に2機のノースアメリカン P-51 マスタングがエールラー機を追撃し始めた。エールラーは爆撃機隊の上でB-24「マイ・バディ」(My Buddie、ゴードン・ブロック中尉操縦)の尾部銃手と側面銃手からの銃撃で被弾し、彼らの報告では飛び去るジェット機の胴体から破片が飛散した。この攻撃は座標53°31N, 10°38Eのブーヒェン(Buchen)上空で行われた。数分後に第448爆撃団がシュテンダルの集結地点へ向けて旋回したときにエールラーはジョン・レイ大尉(Captain John Ray)の操縦する3機目のB-24「トラブル・イン・マインド」(Trouble in Mind)を座標52°57N, 12°23Eのキューリッツ上空で捕捉した。生き残った搭乗員の証言によると機関砲弾がB-24の胴体に命中したが、それはエールラーがテオドール・ヴァイセンベルガー少佐に無線で弾薬が尽き、敵機に突入すると言い残す直前のことであった。ともかくエールラー機とB-24の両機は激突に続いて起こった爆発により大破し、B-24はハーフェルベルク近郊のクルーエンカンペ(Krullenkempe)に、エールラーはシャルリッペ(Scharlibbe)の森に墜落、死亡した。翌日にエールラーの遺体は回収されシャルリッペの近くのシュテンダルに埋葬された。シュテンダルにあるエールラーの墓には死亡日が1945年4月4日と記されている。
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