ドイツへの技術供与
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ドイツは日本に、航空魚雷の技術と九一式航空魚雷の譲渡を申し込んできたことがあった。大日本帝国海軍はその申込みを受け入れ、技術だけではなく九一式航空魚雷を多数、ドイツに持ち込んだ。 ドイツは「航空魚雷」技術を知る必要があった。1940年11月11日のタラント空襲でイタリア戦艦リットリオが大破し、1941年5月26日にはドイツ戦艦ビスマルクが1発の魚雷をうけて舵と操舵機構が数時間故障した経験があった。またこのころ、ドイツは地中海を航行する連合国輸送船を航空魚雷攻撃する必要があった、と伝えられる。
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ドイツへの技術供与
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「赤城 (空母)」の記事における「ドイツへの技術供与」の解説
1935年(昭和10年)6月にイギリスとの海軍協定(対英比率35%)を締結したナチス・ドイツ海軍は、2隻の空母建造を計画した。空母建造の経験を持たない同海軍は、事前にフリードリヒ・ハック(日独協会理事、シンツィンガー・ハック商会代理人)を通じて第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の帰途にあった大日本帝国海軍中将・山本五十六にアドルフ・ヒトラー総統との面会を打診、ヒトラーとの対面は実現直前にキャンセルされたが、ベルリンにてエーリヒ・レーダー海軍軍令部部長、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ軍縮問題担当全権代表、ポール・ベンケ(英語版)提督と山本の会談が実現する。日本海軍とドイツ航空産業との関係は深く、また山本も九九式艦上爆撃機や新型艦上戦闘機(零式艦上戦闘機)の開発にあたってドイツの技術に強い関心を示していた。実際に、赤城の視察はハインケル社からの急降下爆撃機の技術導入が交換条件の一つであり、ドイツ側も、かつて山本が艦長を務めた赤城を敢えて指定した可能性がある。当時、ドイツ陸軍は蔣介石(中華民国)と密接な関係を持ち軍事支援を行う一方、日本陸軍に対しては非常に冷淡であった。日本側も、空母を巡る交流からドイツの最新技術を取り入れたい思惑があり、軍務局の黒島亀人や艦政本部が準備を進めた。なお、ドイツに技術提供がなされた当時の赤城は三段飛行甲板であり、大改装前の状態である。 1935年1月24日、山本のベルリン訪問直後にドイツ海軍は「ドイツ海軍将校によるに日本の軍艦調査」の依頼を通知、続いて駐日ドイツ海軍武官ヴェネガ―中佐が赤城を見学、4月に鹿屋にて赤城搭載機訓練が許可された。8月、日独海軍間で正式に協定が結ばれ、「航空母艦赤城について、その設計から訓練方法まで、一切の秘密を公開し、ドイツ側の技術者及び飛行将校の視察」が許可される。日本帰国後の山本は12月に航空本部長職に着任するまで出仕のままであったが、思い入れのある赤城の技術移転に何らかの指導力を発揮したと思われる。9月、ドイツ技術使節がアメリカ経由で日本に到着すると、海軍省で赤城のブループリントが提供された。これら赤城の技術を参考にして建造が開始されたのが、ドイツの空母グラーフ・ツェッペリン(1936年末起工)であった。 1936年(昭和11年)2月、小島秀雄(在ドイツ日本大使館附海軍駐在武官兼艦政本部造船造兵監督官兼航空本部造兵監督官)がドイツに着任、レーダー海軍総司令官から赤城技術移転について感謝されたのち、小島は呉海軍工廠用の1万5000トン水圧機と室蘭用ローリングマシーン、最新防御甲鉄板(クルップ社)を発注する。大和型戦艦建造のために絶対必要な技術であり、また赤城の技術移転の交換条件の一つでもあった。一連の日独技術交流は、いわば空母赤城と戦艦大和の交換であった。 その後、第二次世界大戦勃発後には赤城の設計図が九五式魚雷などと共にドイツに届けられた(遣独潜水艦作戦)が、空母グラーフ・ツェッペリンは遂に完成されることはなかった。1942年6月上旬のミッドウェー海戦で赤城が沈没すると、海軍(山本と黒島)はグラーフ・ツェッペリンを買収して日本海軍に編入しようとした。しかしドイツ側はグラーフ・ツェッペリンの極東回航は不可能であると拒否し、代艦として神戸港に係留されていた客船シャルンホルストを譲渡、同船は1943年(昭和18年)12月、空母神鷹として竣工した。
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