日本帰国後とは? わかりやすく解説

日本帰国後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/04 08:41 UTC 版)

高木友枝」の記事における「日本帰国後」の解説

1929年7月9日高木10年あまり仕えた台電離職後任遠藤達は政治闘争巻き込まれ半年でその職を追われた(松木幹一郎職位を継ぐ)(p180)。この年盟友後藤世を去っている。70になった高木東京世田谷戻った1940年高木大阪毎日新聞記者下田将美の取材受けた湾生台湾生まれ日本人)と台湾人気質素質などの違い問われると、「日本人両親幼いころから台湾人軽視叩き込まれたのか、間抜けになっていく」と答えている(p66)(p199)。 太平洋戦争期間中医学校卒業生詩人の頼和(中国語版)(1943年没)の校友らが師である高木訪ねて来日面会時に頼和の遺稿となった高木友枝先生』の張冬芳(中国語版)による漢文翻訳文渡された。原文は「時年春到東京去,和同窗之幾位,曾去拜訪,先生猶尚老健善談。」 逝去時門下生研究所台電関係者20人が『高木友枝先生追憶誌』に追悼文寄せている(p200)。没後小金井市多磨霊園埋葬されている。

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日本帰国後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 15:35 UTC 版)

赤羽末吉」の記事における「日本帰国後」の解説

東京戻った末吉挿絵ポスター看板などの仕事を手がけたが、収入一家を支えるには及ばず、妻が銀座千疋屋勤務した。しかも、その年の12月から1948年4月にかけ、次男2歳)、次女5歳)、長女12歳)を相次いで亡くす。1948年8月職業安定所からの紹介で、連合軍最高司令官総司令部 (GHQ)の民間情報教育局 (CIE)にデザイナーとして採用される1951年秋、北多摩郡府中町(現・府中市)の都営住宅転居した。また、1949年三男研三)、1952年に四男をもうけている。1952年連合軍占領が終わると、末吉駐日アメリカ合衆国大使館文化交換展示展示課に移り1969年まで勤務する主な仕事大使館日本国内手がけるアメリカの文化産業などの展示会設営撤収だった。大使館仕事多く出張伴ったものの、当時日本では珍しい完全週休二日残業もない上に給与はよく、余暇描画旅行をすることができた。 画業挿絵中心で、1952年頃には毎日新聞に「山おくの花火」という3コマ漫画文章柴野民三)を連載した1959年には「民話屏風」により、日本童画会展で茂田井武賞を受賞した1957年頃、茂田井武遺作となった絵本セロひきのゴーシュ』(原作宮沢賢治福音館書店)に接して感銘を受ける。これを契機絵本画家となるべく、福音館書店松居直手紙送って面会し画家として採用される。その席で末吉伝えた雪国描きたい」という希望に、松居後日瀬田貞二再話)の『かさじぞう』を依頼した絵本かさじぞう』は1961年1月発売の『こどものとも58号に掲載され末吉50歳で絵本画家としてデビューする。 『かさじぞう』の制作前後に、松居第二作の希望問われ蒙古ものがかきたい」と答える。1961年6月松居から大塚勇三の『スーホの白い馬』を、『こどものとも』の穴埋め原稿として依頼され10月刊行の『こどものとも67号に掲載された。1か月での作画の上色刷り末吉の意と異なっていたため個人的には満足できない仕上がりだったが、再版希望版元寄せられたこともあり、横型の大判絵本末吉提案による)に描き直され1967年再版された。 この間1965年最初サンケイ児童出版文化賞(『ももたろう』『白いりゅういりゅう』)を受賞、さらに『スーホの白い馬』で1968年再度受賞し絵本作家として評価確立1969年アメリカ大使館退職して専業絵本画家となった退職後、神奈川県鎌倉市自宅アトリエ新築して1970年転居する。これに先立ち1965年には長野県信濃町黒姫山麓に別荘を建て、町の意向協力する形で周辺を「黒姫山荘」という別荘地にする活動も手がけた。この別荘地にはいわさきちひろいぬいとみこらも別荘構え、彼らを含めた住人交流した専業作家となってからも精力的に作品世に送る一方で1974年からセミナー絵本学校」(黒姫など数カ所で開催)の校長講師務めるなど、後身育成にも取り組んだ一方絵本読んだ木下順二依頼で、1962年木下脚本担当した西川流舞踊劇花若』の舞台美術衣装を含む)を手がける。これを契機に、主に西川流舞踊劇脚本木下のほか、松山善三北條秀司ら)10作で舞台美術担当した1980年3月27日日本人では初となる国際アンデルセン賞画家賞受賞決定しチェコスロバキアプラハでの授賞式のために同年9月から10月にかけて渡欧した日本日本国際児童図書評議会から国際児童図書評議会 (IBBY)へ末吉推薦書ドシエ)を書いたのは渡辺茂男で、授賞式には末吉同行した1986年には『鳥獣人物戯画』をヒントにした創作絵本『おへそがえる・ごん』(全3巻)を刊行、これが最後オリジナル絵本となった。この絵本には手塚治虫関心示し一部実験アニメにしたいと書いた手紙末吉送っている。 1987年には脳梗塞入院退院後に肝硬変発覚するなど体調落とし1990年春に家族に(手がけていた)『風の又三郎』が完成した絵本執筆から引退するとも話したという。1990年6月8日肝硬変由来する食道静脈瘤破裂により死去生前最後絵本宮沢賢治の『ひかりの素足』で、『風の又三郎』は原画3枚のみで未完となった末吉自身全作品居住した鎌倉市寄贈する意向だったが、市側は原画のみを受け入れるとしたため1998年遺作展開催したいわさきちひろ絵本美術館(現・ちひろ美術館・東京)に遺族より寄贈された。寄贈時点での資料原画など約6900点で、その後発見されたものを加えて2020年時点では7000近く増えている。

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杉野繁一」の記事における「日本帰国後」の解説

1920年大正9年)に夫妻帰国後、繁一は日本統治時代の朝鮮にある平壌(現・北朝鮮)で建築家として活動していた。1926年大正15年)に芳子ドレスメーカー学院設立すると、芳子事業手伝うように懇願され、杉野学園初代理事長就任した専修学校各種学校法的地位確立させるために奔走するなど、教育者として活動する一方現在の杉野服飾大学杉野学園)の校舎体育館衣装博物館などを設計する建築家として活動した故郷佐屋町1965年昭和40年)に町制施行10周年迎えると、繁一は個人的に佐屋町1000万円を寄付した佐屋町は「杉野」の名を関した図書館建設計画し1966年昭和41年)には佐屋町立杉野図書館開館した東京都品川区上大崎4-4にある2人旧宅は、「杉野記念館」として公開されている。目黒駅を西に出て、ドレメ通り呼ばれる通りにある。「杉野記念館」では杉野芳子遺作展などを開催している。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 15:01 UTC 版)

戸嶋靖昌」の記事における「日本帰国後」の解説

1999年に妻が死去したことをきっかけにして2000年日本に帰国すると、東京都稲城市作品制作続けた2001年にはいずれもスペイン在住経験がある島眞一、岡男、上野と「土の会」を結成し清澄画廊などで作品発表し続けた2002年には「月刊美術」の特集号を通じてバイオテック社長執行草舟知り合い執行は戸嶋が死去するまで後援者であり続けた執行バイオテック虎の門社屋中に特設アトリエ設置し、戸嶋はこのアトリエ絶筆となる「執行草舟の像」を描いている。 2004年には40年ぶりに彫刻作品手掛ける2005年11月には虎の門病院末期直腸癌診断され2006年7月20日闘病の末に死去72歳だった。葬儀では本人希望ヨハン・ゼバスティアン・バッハの「マタイ受難曲」が流された。2008年には稲城市アトリエ戸嶋靖昌記念館が開館し2011年には千代田区麹町戸嶋靖昌記念分館開館している。2009年には韓国の写真家チョン・セヨンが写真集TOSHIMA』(流山房)を出版した2015年11月には駐日スペイン大使館において、日西交流400周年記念一環として、「孤高リアリズム戸嶋靖昌芸術~」展が開催された。

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日本帰国後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 09:56 UTC 版)

ディック東郷」の記事における「日本帰国後」の解説

1999年3月東郷会社とそりが合わなかったことからWWF退団した4月日本に帰国後大阪プロレス入団する2001年7月みちのくプロレス参戦してルード軍「F.E.C(ファー・イースト・コネクション)」を結成2004年10月プロレスラー養成所SUPER CREW」を設立2005年10月22日新木場1stRING1期生デビュー戦による旗揚げ戦を開催2006年3月4日新木場1stRING2期生デビュー戦による第2戦を開催12月1日練習生の不足による金銭的経営難により、新木場1stRING開催した第3戦を最後に解散。 またこの時、東郷と仲の良いTAKA率いているKAIENTAI DOJOにも参戦しているが、生涯ヒール自認しているため、ヒールユニットの勤王党共闘してTAKA対立する。その一方で古巣みちのくプロレスこれまで敵対していたサスケ東北タッグ王座就いたりもする。なお、新日本プロレス参戦しC.T.U、ブラック・ニュー・ジャパンと共闘繰り広げていった。 2010年3月11日ブログ入籍したことを報告

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 06:26 UTC 版)

和田英作」の記事における「日本帰国後」の解説

1904年にはセントルイス万国博覧会に『風景』を出品1907年には東京府勧業博覧会審査員第1回文展審査員文部省美術審査委員会委員となり、33歳だったこの年には高橋滋子と結婚した1908年には第2回文展に『おうな』を出品春先から準備進めた労作だったが、「和田氏たしかに老耄の氣味がある、然らざれば餘りに研究な畫だと思ふ、もし是でも研究があつたとすれば、其は餘りに皮相研究である、色に於てに於て殊に顔面の陰の部分透明性色調に於て、(一寸透明に見えると感じたまゝで塗つてある、そして其以上に何ものをも見てない)」との酷評もあった。 1910年には東京美術美術工芸品展覧会評議員、同展第2類出品鑑別委員伊太利万国博覧会美術品出品鑑査委員となった1911年には日本発の純洋式劇場である帝国劇場同年開館)にて、客席天井天女壁画製作した1912年第6回文展出品した『H夫人肖像』は概して高評価得たが、夏目漱石は「和田君はH夫人といふのをもう一枚描いてゐる。是も男爵同様甚だ不快な色をしてゐる。尤も窓掛や何かに遮られた暗い室内事だから光線心持よく通はないのかも知れない、が光線が暗いのではなくって、H夫人の顔が生れ付暗い様に塗ってあるから気の毒である」と評している。 1914年には東京大正博覧会審査官となり、また赤坂離宮東京駅壁画製作した前年赤坂離宮東の間の壁画制作依頼受けていた和田は、紙巻煙草の高級産地であったエジプト・カイロ近郊風景題材とし、1914年7月壁画完成させた。この壁画内装との調和性が傑作称えられている。同年開業した東京駅中央停車場帝室玄関には、黒田下絵を基にして和田日本産業主題とする『海陸殖産・興業』の大壁画を製作した。この壁画太平洋戦争時焼失している。慶應義塾図書館・旧館階段正面施されステンドグラス和田原画を、小川三知が製作を担当し1915年完成した慶應義塾大学図書館旧館太平洋戦争焼失したが、小川助手であった大竹龍蔵によって1974年ステンドグラス復元された。 1914年には勲六等瑞宝章受章1919年には帝国美術院会員となった同年には慶應義塾大学福沢諭吉演説像を製作し三田大講堂中央壁面掲げられたが、この像は太平洋戦争時焼失している。1937年には松村麿がこの像を模写しており、1960年慶應義塾寄贈され三田演説館演台展示されている。和田父親から聞いた話を基にして腕組みをした福沢の姿を表し、このポーズ今日まで福沢イメージとして親しまれている。 1921年4月22日には日仏交換展の代表使節命じられアメリカ経由パリに渡る。勅任官としてフランス官設美術展覧会に日本美術出品する活動行い1922年9月日本に帰国した。1922年には勲四等瑞宝章受章1923年にはフランス政府よりレジオン・ドヌール勲章受けた1928年受章)。同年にはフランス美術展準備委員第2回朝鮮美術審査委員会委員となった1925年には鹿児島県庁舎落成記念して富士河口湖)』を鹿児島県寄贈している。

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日本帰国後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 10:09 UTC 版)

佐川一政」の記事における「日本帰国後」の解説

1984年昭和59年)に日本へ帰国し、精神病院である東京都立松沢病院入院した同病院での診察では、佐川人肉食性癖持っておらず、フランス警察対す欺瞞であったという結論であった副院長金子嗣郎は、“佐川精神病ではなく人格障害であり、刑事責任問われるべきであり、フランス病院佐川1歳時に患った腸炎脳炎取り違えて、それで誤った判断下したではないか”としている。日本警察もまったく同じ考えであり、佐川逮捕して再び裁判にかける方針であったが、フランス警察が「不起訴処分になった者の捜査資料引き渡すことはできない」として拒否した。 同院を15カ月退院した佐川は、マスコミ有名人として扱われ小説家になった。その頃日本病院警察そろって刑事責任追及すべきという方針であったのに、フランス警察方針により、それが不可能になったことから、社会的制裁を受けるべきだという世論起きた両親もこの事件の結果父親会社退職することになり、母親神経症病気患ったという。 社会復帰後1989年平成元年)の宮崎勤逮捕では、猟奇犯罪理解者としてマスコミの寵児となり、忙しい時は月刊誌夕刊紙など4紙誌連載持っていた。印税収入だけで100万円に達した月があった他、講演トークショーにも出演して稼いでいた。また、1本30万円ギャラアダルトビデオ出演していたこともある。 しかし2001年平成13年)頃までにはほとんどの仕事途絶え生活に困って闇金手を出すうになる。「ぜんぜん反省しなくて、相変わらず白人女性付き合う、それにはお金がいるというんで、初めのうちはおやじの財布から万札をいちどぬいたぐらですけど、だんだんデッドヒートして、弟のチェロ売り飛ばしたり、絵を売り飛ばしたり、最後には(クレジットカードまで使って」と自ら語っている。1993年知り合ったドイツ人男性から白人女性2名を紹介され肉体関係持たぬまま金蔓として利用され、共に海外旅行楽しんだが、やがて佐川過去露見したために絶交された、という。 2005年平成17年1月4日に父が死去翌日に母が自殺週刊誌報じられたが、実弟否定している。当時佐川闇金取立て追われ千葉県逃げていたため、両親の死に目に会えず、社葬という理由葬儀への出席断られた。その後、親の遺産借金などを返し2005年平成17年4月公団住宅転居千葉県住んでいた頃は、持病糖尿病悪化し生活保護受けていたが、2006年平成18年)のインタビューでは「現在は受けていません」と語っている。 過去には500通ほどの履歴書書き会社回りしたものの、ことごとく採用拒否されているという。一度だけ「本名応募してくる根性気に入った」と採用決定され語学学校もあったが、職員たち反対受けて不採用となる。小説執筆しているが、「どこの出版社からも取り上げられない」と語っている。 2010年インタビューでは「もう白人女性卒業した今は日本人女性、特に沖縄の女性、ちゅらさん食欲感じます」と発言している。 2013年11月脳梗塞倒れて救急搬送され、歩行困難となり、実弟介護を受けつつ年金生活保護暮らしていることが2015年報じられた。

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