日本帰国後
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1929年7月9日、高木は10年あまり仕えた台電を離職、後任の遠藤達は政治闘争に巻き込まれ約半年でその職を追われた(松木幹一郎が職位を継ぐ)(p180)。この年に盟友の後藤も世を去っている。70代になった高木は東京・世田谷に戻った。 1940年、高木は大阪毎日新聞の記者下田将美の取材を受けた。湾生(台湾生まれの日本人)と台湾人の気質や素質などの違いを問われると、「日本人の両親に幼いころから台湾人軽視を叩き込まれたのか、間抜けになっていく」と答えている(p66)(p199)。 太平洋戦争期間中は医学校卒業生で詩人の頼和(中国語版)(1943年没)の校友らが師である高木を訪ねて来日。面会時に頼和の遺稿となった『高木友枝先生』の張冬芳(中国語版)による漢文翻訳文が渡された。原文は「時年春到東京去,和同窗之幾位,曾去拜訪,先生猶尚老健善談。」 逝去時は門下生や研究所、台電関係者ら20人が『高木友枝先生追憶誌』に追悼文を寄せている(p200)。没後は小金井市の多磨霊園に埋葬されている。
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日本帰国後
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東京に戻った末吉は挿絵やポスター、看板などの仕事を手がけたが、収入は一家を支えるには及ばず、妻が銀座の千疋屋に勤務した。しかも、その年の12月から1948年4月にかけ、次男(2歳)、次女(5歳)、長女(12歳)を相次いで亡くす。1948年8月、職業安定所からの紹介で、連合軍最高司令官総司令部 (GHQ)の民間情報教育局 (CIE)にデザイナーとして採用される。1951年秋、北多摩郡府中町(現・府中市)の都営住宅に転居した。また、1949年に三男(研三)、1952年に四男をもうけている。1952年に連合軍の占領が終わると、末吉は駐日アメリカ合衆国大使館文化交換局展示部展示課に移り、1969年まで勤務する。主な仕事は大使館が日本国内で手がけるアメリカの文化や産業などの展示会の設営や撤収だった。大使館の仕事は多くの出張が伴ったものの、当時の日本では珍しい完全週休二日で残業もない上に給与はよく、余暇に描画や旅行をすることができた。 画業は挿絵が中心で、1952年頃には毎日新聞に「山おくの花火」という3コマ漫画(文章は柴野民三)を連載した。1959年には「民話屏風」により、日本童画会展で茂田井武賞を受賞した。 1957年頃、茂田井武の遺作となった絵本『セロひきのゴーシュ』(原作:宮沢賢治、福音館書店)に接して感銘を受ける。これを契機に絵本画家となるべく、福音館書店の松居直に手紙を送って面会し、画家として採用される。その席で末吉が伝えた「雪国が描きたい」という希望に、松居は後日瀬田貞二(再話)の『かさじぞう』を依頼した。絵本『かさじぞう』は1961年1月発売の『こどものとも』58号に掲載され、末吉は50歳で絵本画家としてデビューする。 『かさじぞう』の制作前後に、松居に第二作の希望を問われ「蒙古ものがかきたい」と答える。1961年6月、松居から大塚勇三の『スーホの白い馬』を、『こどものとも』の穴埋め原稿として依頼され、10月刊行の『こどものとも』67号に掲載された。1か月での作画の上、色刷りが末吉の意と異なっていたため個人的には満足できない仕上がりだったが、再版希望が版元に寄せられたこともあり、横型の大判絵本(末吉の提案による)に描き直されて1967年に再版された。 この間、1965年に最初のサンケイ児童出版文化賞(『ももたろう』『白いりゅう黒いりゅう』)を受賞、さらに『スーホの白い馬』で1968年に再度受賞し、絵本作家としての評価を確立、1969年にアメリカ大使館を退職して専業の絵本画家となった。退職後、神奈川県鎌倉市に自宅兼アトリエを新築して1970年に転居する。これに先立ち、1965年には長野県信濃町の黒姫山麓に別荘を建て、町の意向に協力する形で周辺を「黒姫山荘」という別荘地にする活動も手がけた。この別荘地にはいわさきちひろやいぬいとみこらも別荘を構え、彼らを含めた住人と交流した。専業作家となってからも精力的に作品を世に送る一方で、1974年からセミナー「絵本の学校」(黒姫など数カ所で開催)の校長兼講師を務めるなど、後身の育成にも取り組んだ。 一方、絵本を読んだ木下順二の依頼で、1962年に木下が脚本を担当した西川流の舞踊劇『花若』の舞台美術(衣装を含む)を手がける。これを契機に、主に西川流の舞踊劇(脚本は木下のほか、松山善三、北條秀司ら)10作で舞台美術を担当した。 1980年3月27日、日本人では初となる国際アンデルセン賞画家賞の受賞が決定し、チェコスロバキアのプラハでの授賞式のために同年9月から10月にかけて渡欧した。日本の日本国際児童図書評議会から国際児童図書評議会 (IBBY)へ末吉の推薦書(ドシエ)を書いたのは渡辺茂男で、授賞式には末吉と同行した。 1986年には『鳥獣人物戯画』をヒントにした創作絵本『おへそがえる・ごん』(全3巻)を刊行、これが最後のオリジナル絵本となった。この絵本には手塚治虫が関心を示し、一部を実験アニメにしたいと書いた手紙を末吉に送っている。 1987年には脳梗塞で入院、退院後に肝硬変が発覚するなど体調を落とし、1990年春には家族に(手がけていた)『風の又三郎』が完成したら絵本の執筆から引退するとも話したという。1990年6月8日、肝硬変に由来する食道静脈瘤破裂により死去。生前最後の絵本は宮沢賢治の『ひかりの素足』で、『風の又三郎』は原画3枚のみで未完となった。 末吉自身は全作品を居住した鎌倉市に寄贈する意向だったが、市側は原画のみを受け入れるとしたため、1998年に遺作展を開催したいわさきちひろ絵本美術館(現・ちひろ美術館・東京)に遺族より寄贈された。寄贈時点での資料は原画など約6900点で、その後発見されたものを加えて2020年時点では7000点近くに増えている。
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日本帰国後
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1920年(大正9年)に夫妻で帰国後、繁一は日本統治時代の朝鮮にある平壌(現・北朝鮮)で建築家として活動していた。1926年(大正15年)に芳子がドレスメーカー学院を設立すると、芳子に事業を手伝うように懇願され、杉野学園の初代理事長に就任した。専修学校や各種学校の法的地位を確立させるために奔走するなど、教育者として活動する一方、現在の杉野服飾大学(杉野学園)の校舎、体育館、衣装博物館などを設計する建築家としても活動した。故郷の佐屋町が1965年(昭和40年)に町制施行10周年を迎えると、繁一は個人的に佐屋町に1000万円を寄付した。佐屋町は「杉野」の名を関した図書館の建設を計画し、1966年(昭和41年)には佐屋町立杉野図書館が開館した。 東京都品川区上大崎4-4にある2人の旧宅は、「杉野記念館」として公開されている。目黒駅を西に出て、ドレメ通りと呼ばれる通りにある。「杉野記念館」では杉野芳子遺作展などを開催している。
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日本帰国後
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1999年に妻が死去したことをきっかけにして2000年に日本に帰国すると、東京都稲城市で作品制作を続けた。2001年にはいずれもスペイン在住経験がある島眞一、岡楯男、上野在森と「土の会」を結成し、清澄画廊などで作品を発表し続けた。2002年には「月刊美術」の特集号を通じてバイオテック社長の執行草舟と知り合い、執行は戸嶋が死去するまで後援者であり続けた。執行はバイオテック虎の門社屋の中に特設アトリエを設置し、戸嶋はこのアトリエで絶筆となる「執行草舟の像」を描いている。 2004年には40年ぶりに彫刻作品を手掛ける。2005年11月には虎の門病院で末期の直腸癌と診断され、2006年7月20日、闘病の末に死去。72歳だった。葬儀では本人の希望でヨハン・ゼバスティアン・バッハの「マタイ受難曲」が流された。2008年には稲城市のアトリエに戸嶋靖昌記念館が開館し、2011年には千代田区麹町に戸嶋靖昌記念館分館が開館している。2009年には韓国の写真家チョン・セヨンが写真集『TOSHIMA』(樹流山房)を出版した。2015年11月には駐日スペイン大使館において、日西交流400周年記念の一環として、「孤高のリアリズム~戸嶋靖昌の芸術~」展が開催された。
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日本帰国後
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1999年3月、東郷は会社とそりが合わなかったことからWWFを退団した。4月、日本に帰国後、大阪プロレスに入団する。 2001年7月、みちのくプロレスに参戦してルード軍「F.E.C(ファー・イースト・コネクション)」を結成。2004年10月、プロレスラー養成所「SUPER CREW」を設立。 2005年10月22日、新木場1stRINGで1期生のデビュー戦による旗揚げ戦を開催。 2006年3月4日、新木場1stRINGで2期生のデビュー戦による第2戦を開催。12月1日、練習生の不足による金銭的経営難により、新木場1stRINGで開催した第3戦を最後に解散。 またこの時、東郷と仲の良いTAKAが率いているKAIENTAI DOJOにも参戦しているが、生涯一ヒールを自認しているため、ヒールユニットの勤王党と共闘してTAKAと対立する。その一方で、古巣のみちのくプロレスでこれまで敵対していたサスケと東北タッグ王座に就いたりもする。なお、新日本プロレスに参戦しC.T.U、ブラック・ニュー・ジャパンと共闘を繰り広げていった。 2010年3月11日、ブログで入籍したことを報告。
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日本帰国後
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1904年にはセントルイス万国博覧会に『風景』を出品。1907年には東京府勧業博覧会審査員、第1回文展審査員、文部省美術審査委員会委員となり、33歳だったこの年には高橋滋子と結婚した。1908年には第2回文展に『おうな』を出品。春先から準備を進めた労作だったが、「和田氏はたしかに老耄の氣味がある、然らざれば餘りに無研究な畫だと思ふ、もし是でも研究があつたとすれば、其は餘りに皮相な研究である、色に於て形に於て、殊に顔面の陰の部分の透明性な色調に於て、(一寸透明に見えると感じたまゝで塗つてある、そして其以上に何ものをも見てない)」との酷評もあった。 1910年には東京美術及美術工芸品展覧会評議員、同展第2類出品鑑別委員、伊太利万国博覧会美術品出品鑑査委員となった。1911年には日本発の純洋式劇場である帝国劇場(同年開館)にて、客席天井に天女の壁画を製作した。1912年に第6回文展に出品した『H夫人肖像』は概して高評価を得たが、夏目漱石は「和田君はH夫人といふのをもう一枚描いてゐる。是も男爵同様甚だ不快な色をしてゐる。尤も窓掛や何かに遮られた暗い室内の事だから光線が心持よく通はないのかも知れない、が光線が暗いのではなくって、H夫人の顔が生れ付暗い様に塗ってあるから気の毒である」と評している。 1914年には東京大正博覧会の審査官となり、また赤坂離宮と東京駅の壁画を製作した。前年に赤坂離宮東の間の壁画制作依頼を受けていた和田は、紙巻煙草の高級産地であったエジプト・カイロ近郊の風景を題材とし、1914年7月に壁画を完成させた。この壁画は内装との調和性が傑作と称えられている。同年に開業した東京駅(中央停車場)帝室用玄関には、黒田の下絵を基にして和田が日本の産業を主題とする『海陸・殖産・興業』の大壁画を製作した。この壁画は太平洋戦争時に焼失している。慶應義塾図書館・旧館の階段正面に施されたステンドグラスは和田が原画を、小川三知が製作を担当し、1915年に完成した。慶應義塾大学図書館・旧館は太平洋戦争で焼失したが、小川の助手であった大竹龍蔵によって1974年にステンドグラスが復元された。 1914年には勲六等瑞宝章を受章。1919年には帝国美術院の会員となった。同年には慶應義塾大学に福沢諭吉演説像を製作し、三田大講堂の中央壁面に掲げられたが、この像は太平洋戦争時に焼失している。1937年には松村菊麿がこの像を模写しており、1960年に慶應義塾に寄贈されて三田演説館の演台に展示されている。和田は父親から聞いた話を基にして腕組みをした福沢の姿を表し、このポーズは今日まで福沢のイメージとして親しまれている。 1921年4月22日には日仏交換展の代表使節に命じられ、アメリカ経由でパリに渡る。勅任官としてフランス官設美術展覧会に日本美術を出品する活動を行い、1922年9月に日本に帰国した。1922年には勲四等瑞宝章を受章。1923年にはフランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を受けた(1928年に受章)。同年にはフランス美術展の準備委員、第2回朝鮮美術審査委員会の委員となった。1925年には鹿児島県庁舎の落成を記念して『富士(河口湖)』を鹿児島県に寄贈している。
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日本帰国後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 10:09 UTC 版)
1984年(昭和59年)に日本へ帰国し、精神病院である東京都立松沢病院に入院した。同病院での診察では、佐川は人肉食の性癖は持っておらず、フランス警察に対する欺瞞であったという結論であった。副院長の金子嗣郎は、“佐川は精神病ではなく人格障害であり、刑事責任を問われるべきであり、フランスの病院は佐川が1歳の時に患った腸炎を脳炎と取り違えて、それで誤った判断を下したのではないか”としている。日本警察もまったく同じ考えであり、佐川を逮捕して再び裁判にかける方針であったが、フランス警察が「不起訴処分になった者の捜査資料を引き渡すことはできない」として拒否した。 同院を15カ月で退院した佐川は、マスコミに有名人として扱われ、小説家になった。その頃、日本の病院と警察がそろって刑事責任を追及すべきという方針であったのに、フランス警察の方針により、それが不可能になったことから、社会的制裁を受けるべきだという世論が起きた。両親もこの事件の結果、父親は会社を退職することになり、母親は神経症の病気を患ったという。 社会復帰後、1989年(平成元年)の宮崎勤逮捕では、猟奇犯罪の理解者としてマスコミの寵児となり、忙しい時は月刊誌や夕刊紙など4紙誌に連載を持っていた。印税収入だけで100万円に達した月があった他、講演やトークショーにも出演して稼いでいた。また、1本30万円のギャラでアダルトビデオに出演していたこともある。 しかし2001年(平成13年)頃までにはほとんどの仕事が途絶え、生活に困って闇金に手を出すようになる。「ぜんぜん反省しなくて、相変わらず白人女性と付き合う、それにはお金がいるというんで、初めのうちはおやじの財布から万札をいちどぬいたぐらいですけど、だんだんデッドヒートして、弟のチェロを売り飛ばしたり、絵を売り飛ばしたり、最後には(クレジット)カードまで使って」と自ら語っている。1993年に知り合ったドイツ人男性から白人女性2名を紹介され、肉体関係を持たぬまま金蔓として利用され、共に海外旅行を楽しんだが、やがて佐川の過去が露見したために絶交された、という。 2005年(平成17年)1月4日に父が死去。翌日に母が自殺と週刊誌で報じられたが、実弟は否定している。当時、佐川は闇金の取立てに追われて千葉県に逃げていたため、両親の死に目に会えず、社葬という理由で葬儀への出席も断られた。その後、親の遺産で借金などを返し、2005年(平成17年)4月に公団住宅に転居。千葉県に住んでいた頃は、持病の糖尿病が悪化し、生活保護を受けていたが、2006年(平成18年)のインタビューでは「現在は受けていません」と語っている。 過去には500通ほどの履歴書を書き、会社回りをしたものの、ことごとく採用を拒否されているという。一度だけ「本名で応募してくる根性が気に入った」と採用決定された語学学校もあったが、職員たちの反対を受けて不採用となる。小説を執筆しているが、「どこの出版社からも取り上げられない」と語っている。 2010年のインタビューでは「もう白人女性は卒業した。今は日本人女性、特に沖縄の女性、ちゅらさん。食欲を感じます」と発言している。 2013年11月に脳梗塞で倒れて救急搬送され、歩行困難となり、実弟の介護を受けつつ年金と生活保護で暮らしていることが2015年に報じられた。
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