日本に帰国後
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1990年、母校である九州大学に戻り、医学部附属心臓血管研究施設にて臨床細胞科学部門を受け持つ助教授に着任した。 1996年には山口大学に移り、同大学の大学院にて医学研究科の教授に就任し、応用医工学系のデジタル情報制御医科学やデジタル細胞制御学などを講じている。また、医学部医学科の教授も兼任し、器官制御医科学や分子細胞生理学などを講じた。研究テーマとして「血管病の撲滅!」を掲げ、学究活動に従事し続けている。
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日本に帰国後
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「前田利男 (薬学者)」の記事における「日本に帰国後」の解説
1979年、母校である静岡薬科大学に戻り、薬学部の助手として勤務する。その後、1980年には、同大学の薬学部の講師に就任した。その後、静岡薬科大学が静岡女子大学、静岡女子短期大学と統合され、新たに静岡県立大学が設置されると、同大学の薬学部にて引き続き講師を務めた。1996年には静岡県立大学の薬学部にて助教授に昇任した。2007年より同大学の薬学部薬学科にて准教授を務める。なお、大学院の薬学研究科にて准教授を兼任している。2013年、教授に昇任する。2014年3月、静岡県立大学を退職する。
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日本に帰国後
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1912年1月、日本に帰国。1912年2月、内務省に内務技師(高等官六等)として入省。内務省土木局東京土木出張所(現在の国土交通省関東地方整備局)において、19年にわたり荒川放水路(現在の荒川下流域)の建設工事を指揮した。また、鬼怒川の改修工事にもあたっている。 1927年6月24日、信濃川大河津分水路工事において自在堰が陥没する事故が発生すると、青山はその修復と工事完成の任を担い、1927年12月に内務省土木局新潟土木出張所長(現在の国土交通省北陸地方整備局長に相当する)に就任した(1934年まで在任)。青山は分水路の改修工事の最高責任者となり(青山の下で現場責任者を務めたのは宮本武之輔であった)、1931年に大河津分水路を完成させた。 1934年5月、第5代内務技監に就任、1936年11月まで2年間務めた。内務技監当時、物部長穂の河水統制計画案を採用、河川開発の一元化へ行政の転換を方向付け、以後多目的ダムによる河川開発が始まることになる(電力行政にもたらした影響は日本発送電を参照)。しかし、土木局における技官と事務官の処遇格差をめぐるかねてからの対立が紛争に発展し、青山はその責任をとる形で辞職した(キャリアの項目に言及がある)。なお、1935年には土木学会会長を務めている。 内務技監退任後は、東京市水道水源調査委員会、兵庫県水害復興専門委員会の委員や、満州国交通部嘱託として、土木行政・治水事業などの指導にあたった。 太平洋戦争中には、パナマ運河の爆破攻撃を立案していた大日本帝国海軍から、パナマ運河についての情報提供を求められた。「私は造ることは知っているが壊し方は知らない」と答え、土木技術者の良心に基づきこれを拒否したと伝えられている。あるいは「せっかく皆で苦労して造ったのだから、そっくりそのまま貰うことを考えたらどうじゃ」と返して破壊への非協力を示したともいう。一方で、各地の治水事業にあたっては「土木も国防である」と語っていた。 1945年6月、長野県に疎開、戦後は磐田の実家に移る。隠居をしたものの生活には困窮したとされ、県などの土木事業の技術顧問として活動を続け、1949年には建設省荒川計画高水量検討会座長を務めた。 1963年、磐田市の自宅において、老衰のため死去した。84歳。
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