日本帰国後の足取りとは? わかりやすく解説

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日本帰国後の足取り

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 06:35 UTC 版)

秦佐八郎」の記事における「日本帰国後の足取り」の解説

1912年明治45年7月12日医学博士学位を受ける。論文螺旋病のヘモテラピー」。 1913年大正2年)、国産サルバルサン製造することになり、協力する1913年大正2年)、日本結核予防協会設立参画する1914年大正3年11月5日伝染病研究所移管に伴い北里所長と共に総辞職し北里研究所創立される。秦は設立参画しており、部長となる。 1915年大正4年5月欧州大戦勃発に伴い ほとんど輸入頼っていたドイツからの医療品途絶えたことから、日本医薬産業育成医薬品国産化目的とした「染料医薬品製造奨励法案」が第三十六議会通過10月14日施行1915年大正4年)、国と鈴木梅太郎三共協力得て国産化取り組んでいたサルバルサン製造成功。アルサミノールの名で販売した1920年大正9年)、慶應義塾大学医学部教授就任細菌学免疫学講じる慶應義塾大学医学部教授時代医学部では学生グループ分けして教授に受け持たせ、一学期一、二親しく会合して、学生善導しようという「補導会」が設けられていた。その折、秦は学生自宅招いて手塩にかけて育てた大菊小菊観菊会催して言った。「仕立てるには保護をしたり、春先伸びる頃にはいじめてやらねばならない諸君は今、養分のたくさん要る時だ。御馳走はないけれども、みな平らげてくれ給え。それで補導終わり」と。 1921年大正10年6月極東熱帯医学会に出席のためインドネシア・ジャワ・バタビヤに出張1923年大正12年2月、アメリカ・ロックフェラー財団招き同国カナダ医事衛生視察1926年大正15年)、ドイツ帝国自然科学会員推される。 1928年昭和3年)、ドイツ開催され国際連盟主催サルバルサン標準国際会議出席1931年昭和6年)、恩師北里柴三郎博士死去6月北里研究所副所長就任1933年昭和8年1月帝国学士院(のちの日本学士院会員勅選され終身勅任官待遇を受ける。

※この「日本帰国後の足取り」の解説は、「秦佐八郎」の解説の一部です。
「日本帰国後の足取り」を含む「秦佐八郎」の記事については、「秦佐八郎」の概要を参照ください。

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