日本帰国後の足取り
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1912年(明治45年)7月12日、医学博士の学位を受ける。論文「螺旋菌病のヘモテラピー」。 1913年(大正2年)、国産のサルバルサンを製造することになり、協力する。 1913年(大正2年)、日本結核予防協会設立に参画する。 1914年(大正3年)11月5日、伝染病研究所移管に伴い北里所長と共に総辞職し、北里研究所が創立される。秦は設立に参画しており、部長となる。 1915年(大正4年)5月、欧州大戦勃発に伴い ほとんど輸入に頼っていたドイツからの医療品が途絶えたことから、日本の医薬産業の育成と医薬品の国産化を目的とした「染料医薬品製造奨励法案」が第三十六議会を通過、10月14日施行。 1915年(大正4年)、国と鈴木梅太郎と三共の協力を得て国産化に取り組んでいたサルバルサンの製造に成功。アルサミノールの名で販売した。 1920年(大正9年)、慶應義塾大学医学部教授に就任。細菌学、免疫学を講じる。慶應義塾大学医学部教授時代の医学部では学生をグループ分けして教授に受け持たせ、一学期に一、二回親しく会合して、学生を善導しようという「補導会」が設けられていた。その折、秦は学生を自宅に招いて、手塩にかけて育てた大菊、小菊の観菊会を催して言った。「菊を仕立てるには保護をしたり、春先、芽が伸びる頃にはいじめてやらねばならない。諸君は今、養分のたくさん要る時だ。御馳走はないけれども、みな平らげてくれ給え。それで補導会終わり」と。 1921年(大正10年)6月、極東熱帯医学会に出席のためインドネシア・ジャワ・バタビヤに出張。 1923年(大正12年)2月、アメリカ・ロックフェラー財団の招きで同国とカナダの医事衛生視察。 1926年(大正15年)、ドイツ帝国自然科学院会員に推される。 1928年(昭和3年)、ドイツで開催された国際連盟主催、サルバルサン標準国際会議に出席。 1931年(昭和6年)、恩師北里柴三郎博士死去。6月、北里研究所副所長に就任。 1933年(昭和8年)1月、帝国学士院(のちの日本学士院)会員に勅選され終身勅任官待遇を受ける。
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