日本平和党
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青杉 幹二 もともと社会平和党右派の議員で隆介とは同期、彼のことを良きライバルとしてみている。渦上の推薦により浅海政権の政治改革担当大臣に就任。その後政治改革関連法案成立を巡って海藤に接近。 剣道をたしなみ、たびたび木刀や真剣を振るう場面が見られた。 政治改革関連法案の成立後同志41名とともに社平党を離党して「日本平和党」を結成、党首となる。中選挙区時代は茨城県選出だったが、選挙制度が小選挙区に変更された際には兵庫1区が選挙区になっている」。 渦上失脚後の内閣総理大臣となるが当初から国民人気を頼りにパフォーマンス性の強い行動に偏る傾向があり、核実験を再開したフランスに対する派手かつ相手の感情を逆撫でするような抗議アクションにより一時両国の関係を悪化させたり(しかも同様に核実験を実施している中国に対する抗議姿勢を巡って論破された)、大阪で開催したAPEC首脳会議で大きな成果を上げられなかったほか、財政赤字を拡大させたことで国民の支持を落とし、総選挙で日本平和党の議席を減らしたため総理の座を追われる。 小沢内閣にて外務大臣を務めるもシージャック事件を引き起こす要因を間接的に作ってしまった。のちには民政党からの誘惑(実は熱田の謀略だった)に乗じて連立を離脱、民政党と合同で「国民福祉党」を結成するも世論からの信用がガタ落ちし、直後の総選挙で落選した。その晩、彼は自宅にて自決を決行しようとしたが、息子からエールをもらい踏みとどまった。 海藤 正俊 もとは民主政和党の大物議員。元内閣総理大臣。政治改革関連法案成立を巡って接近してきた青杉幹二と結託、自身が率いる護憲グループ70名を引き連れて日本平和党に合流、副党首となる。 当初より闇将軍として政界を牛耳ることを目論んでおり、渦上の女性問題発覚に対しては民政党との連携をちらつかせて渦上に辞任を迫り、青杉失脚後の首班指名に際しては一旦渦上の要求に応じるふりをして長池修三を推薦(実は自身の謀略で長池を失脚に追い込み、平和党から後継総理を擁立する算段だった)するなど、本作屈指の〝タヌキ〟ぶりを発揮する。 しかし最後は渦上と差し違えの形で青杉からも絶縁され、失意の死を遂げた。 浦口 直樹 青杉内閣の外務大臣。労組の書記長を務めていたバリバリの社会主義者だったが、転向して日本平和党に参加。政務次官の隆介よりも外交能力を疑われている。 来栖 乙彦 小沢内閣の防衛政務次官。日米安保に否定的なハト派グループに所属している。しかしその左翼イデオロギーで凝り固まって現実を直視していない防衛意識に、防衛庁長官の隆介からは「防衛政務次官としてあまりにも不見識」と叱責された。
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日本平和党
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社平党右派の青杉と民政党を離党した海藤グループが合流して結成。そもそもが時の政権党に与することで常に政権に居座って影響力を持つことが狙いの日和見政党。党首は結党以来解党まで青杉幹二。
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