民主政和党
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鳩村 尚三(謙三) 隆介が初当選した当時の内閣総理大臣。党内第三派閥の鳩村派の領袖で、第五派閥だった加治派(→井原派)の協力を得て総理の座に就く。しかし、その後有力スポンサーだった光田工業相手の仕手戦が絡んだ事件で盟友であり大物政治家である加治元治に調停を依頼し、その見返りに光田工業から賄賂を受け取る。その後、事件の真相が知られることを恐れる私設秘書の海部雅治からの進言で、加治元春の殺害を指示。その後で光田工業から賄賂を隆介に暴かれたことにより内閣総辞職を余儀なくされる(その後、収賄罪で逮捕)。 保釈後は人目を避け、目黒の自宅でひっそりと過ごしていたが、最後は海部雅治に射殺された。 連載当時の名前は「鳩村謙三」だったが、後の単行本では「鳩村尚三」に変わっている。 井原 七郎 隆介の初当選当時は農林水産大臣。のち内閣総理大臣。福岡県選出の政治家。加治元春の死後、錦江クラブを継承、「七政会」に改組する。鳩村失脚後、多数派工作に成功して内閣総理大臣となるが政治改革法案廃案を巡って内閣不信任案を提出され(渦潮、桜嵐会が賛成に回って可決)、解散総選挙に打って出るものの民政党の過半数割れを招き、首班指名で浅海に敗れて退陣した。 その後は政敵だった鈴鹿と手を組んでいる姿が見られることから、何らかの影響力は残しているものとみられる。 鈴鹿 宏 当初は民主政和党幹事長、のち井原政権崩壊後に下野した民主政和党総裁に就任、日本平和党との合併後の国民福祉党でも総裁を務める。宮城県選出の政治家。党内有力派閥である鈴鹿派の領袖。 鳩村内閣の文部大臣の失言テープを入手して衆議院解散のキャスティングボートを握ったり、浅海のカルテを入手して重病による早期死亡を予期したり、渦上の女性スキャンダルの掴んだ後で絶妙のタイミングでリークしたり、新党渦潮の東亜証券問題の情報を入手(ただし熱田と熊田によって青杉に情報が流れ、先にリークされる)したり、豊富な情報網を持っている。また光田工業事件で鳩村首相が追及された際には、自派の議員が議員辞職を考えているとして複数の議員バッジを示した上で鳩村に首相辞任を勧告。また社会平和党との野合など数々の策を打つ。民主政和党の下野以降は政権奪回に執念を燃やすが、政権奪回には至らなかった。 早い時期から登場しているが、裏工作を得意する策士ということもあり、加治隆介と会話しているシーンは一度も無い。 谷崎 健吾 加治元春の議員秘書。元治の死後、後継者となった隆介の政治姿勢に反発して後援会の大多数を率いて出馬。中選挙区で2回・小選挙区で2回、隆介と選挙戦を争っており、特に小選挙区制導入後の2回は隆介と一騎討ちとなった。 いわゆる利益誘導型の政治家で、当初こそ民政党や錦江クラブの強烈なバックアップを受け、切れ者政治家として注目されたが、結局は陣笠議員に成り下がり、やがて政治家としての実績、実力共に隆介に水を空けられる。 そのため隆介と神弘組の黒い交際をでっち上げて一旦は隆介を議員辞職に追い込むなどの妨害工作を繰り返す。 最初の小選挙区では隆介に敗れるも惜敗率で復活当選するが実力で隆介に差をつけられ、最後は総選挙で圧倒的大差をつけられたうえ、選挙違反疑惑で警察に任意同行を求められた。 加治 元春 鹿児島県出身。労働大臣、建設大臣を歴任した与党大物政治家。隆介の父親。原理原則を貫く真の政治家として人気が高く、党内第五派閥「錦江クラブ」(加治派)の領袖だった。光田工業相手の仕手戦が絡んだ事件で盟友である鳩山から斡旋を依頼される。後に光田工業から賄賂性の高い金を受け取った疑惑を掛けられていたがその渦中、交通事故(実は鳩村の陰謀)により即死した。
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民主政和党(民政党)
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戦後一貫して与党を維持し続けた保守政党。加治や渦上の離党により衆院で過半数割れ、総選挙でも過半数奪取ならず下野した。後に日本平和党と合流し、国民福祉党を結成。自由民主党がモデル。
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