自由と責任党、または関連する党派
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「加治隆介の議」の記事における「自由と責任党、または関連する党派」の解説
加治 隆介 鹿児島県出身。鹿児島1区選出。民主政和党の大物政治家である加治元春の次男。鹿児島ラサール高校、東京大学法学部を経て、一流商社である丸講物産に入社。父とその後継者と目されていた兄の死をうけて後援会長の山本らにより後継者に推される。しかし、地元利益を前面に押し出さない姿勢を鮮明にしたことで後援会分裂を招き、民政党からも公認されなかったがこれが逆に若年層の支持を獲得する。 初当選直後は民政党井原派に属するも当初より旧来のしがらみに囚われない政治活動を志し、同じ井原派の若手議員数人とともに超党派の政策集団「桜嵐会」を結成(のちに「桜新党」→「自由と責任党」に発展) その後鳩村失脚、総選挙での民政党敗北を経て誕生した野党連立による浅海恒太郎内閣にて内閣官房長官に指名され、のちの渦上三郎内閣まで務める。 その後は青杉幹二内閣で外務政務次官、小沢倫太郎内閣で国務大臣防衛庁長官、平原和正内閣にて外務大臣を歴任、そして平原首相の病気辞任に伴う自由と責任党党首選にて熱田健二郎を破って自由と責任党党首、内閣総理大臣に就任する。総理就任時には第一に憲法改正を発議し、集団的自衛権行使実現を果たした。 外遊時に事件に巻き込まれることが多く、鳩村失脚後の総選挙期間中に一ノ関鮎美の消息を追ってカンボジアに向かった際にはゲリラに身柄を拘束され命を落とす寸前まで行ったほか、やくざとの裏取引(大阪でのAPEC会合開催時に中国代表団から別のホテルを用意するよう要求されたため、そのホテルを予約していたとある暴力団の組長と交渉したこと)を問題視され一時議員を辞職していた際に一民間人として韓国を訪問した際には、北朝鮮関係者により拉致されかかったり、新たに南侵トンネルの発見もした。 浅海 恒太郎 民主政和党の大物議員。農林大臣、厚生大臣、民政党政調会長、桜新党代表、内閣総理大臣を歴任。首相の番記者から政界入りした。民政党時代は加治元治の側近中の側近として、所属派閥「錦江クラブ」(加治派)の事務総長を長く務め「錦江クラブの元帥」と呼ばれていた。首相就任が決まった時の特集番組では選挙区は「和歌山1区」でとあるが、政権交代を成し遂げた時の衆院選の開票速報番組では「長野2区」という記述があった。 元治の死により「錦江クラブ」の後任会長となった井原七郎とはソリが合わず、錦江クラブの七政会への衣替えに反発して隆介の桜嵐会に参加。その人脈と影響力で桜嵐会の勢力拡大に貢献したほか、鳩村失脚後の民政党総裁選に渦上三郎の擁立を打ち出して鳩村・井原派の分断や鈴鹿・桂木・横谷の三派連合の分裂を引き起こすなど、策士であった。 その後、隆介がカンボジアで拉致されて不在の中で桜嵐会を取りまとめ、井原内閣不信任案に賛成したことで全会員とともに民政党を離党、桜新党を結成して代表となる。 総選挙にて民政党敗北ののち初の反民政連立内閣の総理大臣となり、当選2回の隆介を内閣官房長官に指名する。 総理大臣就任後、政治改革関連法案の成立に執念を燃やすが、法案が衆議院を通過した当日夜、持病の肝細胞癌の悪化により官邸内で吐血、殉職した。 初期における隆介の後見人的存在、政治の師匠的存在である。 渦上 三郎 広島県出身。広島1区選出。内閣総理大臣、新党渦潮代表、自由と責任党党首を歴任。原理原則を貫く真の政治家で、民政党時代は次期首相候補と目された鳩村派のプリンスだったが、鳩村辞任後の民政党総裁選に、鳩村・井原の二派合同による井原擁立に反発する形で桜嵐会の後押しをうけて出馬し、鳩村派を除名される。 井原・鳩村の多数派工作の前に敗れ去った後に「新党渦潮」(のちに自由と責任党に発展)を結成して民政党を離党。政権交代を実現させて浅海政権の副総理・外務大臣に就任、そして浅海の急死をうけて自由と責任党・日本平和党の連立を成功させ、内閣総理大臣となった。 しかし、北朝鮮問題や責任党・平和党の理念の相違等で政権運営に苦しみ、最後は自身の女性問題が引き金となって辞任に追い込まれた。その後も自由と責任党党首として活躍するも青杉退陣後の首班指名候補擁立を巡って日本平和党の海藤正俊を殴打し責任を取って政界を引退。その後は故郷の広島で悠々自適の余生を送る。妻との仲は冷え切っている。 民政党時代の隆介にとっては桜嵐会以外での最大の同志といえ、浅海亡き後は隆介に関わる彼の立場をそっくり引き継いだ。 細井 義文 徳島県出身。徳島1区(中選挙区時代)選出で隆介より1期先輩。加治元春に心酔しており、七政会への参加に疑問を持って隆介・秋山とともに桜嵐会を結成。その後渦上政権の内閣官房副長官を務め、加治政権にて内閣官房長官となる。 隆介の先輩議員であり、一番の同志である。 秋山 吉正 山梨県出身。山梨2区(中選挙区時代)選出で隆介とは同期。隆介・細井とともに桜嵐会の結成メンバーとなる。五菱経済研究所で主任研究員を務めた経済通。小沢政権当時は運輸政務次官だった。加治政権では熱田の後押しで経済企画庁長官に就任するも、当初は派閥人事と称されることを嫌って固辞していた。 土方 俊太郎 長崎県出身。元は海上自衛隊の護衛艦「ちくご」艦長。北朝鮮の小型砲艦による韓国籍フェリー襲撃に際し、乗客の人命優先のため敢えて規律に違反して砲艦を撃沈、引責退職に追い込まれる。 その後は、仕出し屋(夫人の実家)で揚げ方として働いていたが、行動力に感銘を受けた隆介の熱心な説得に応じて長崎4区より出馬、見事当選を果たす。 加治政権では入閣第1号として防衛庁長官に就任した。 津坂 藤治 鹿児島県出身。隆介の高校の後輩。鹿児島青年会議所の理事長として実績を残した後、隆介の後押しで鹿児島2区から立候補し当選を果たす。以後は加治の側近として活躍。加治と熱田による党首選の際には秋山とともに国会議員に対する多数派工作を受け持つが、その際偶然会った(熱田側近の)熊田との論戦で劣勢となったことで腹を立て、熊田を一方的にライバル視していた。 長池 修三 兵庫県出身。渦上の側近として新党渦潮代表幹事、自由と責任党幹事長を歴任。青杉失脚後に一旦後継の首班指名候補とされたが、その後に自身の運動員による選挙違反(実は海藤による謀略だった)の発覚で連座制により議員辞職に追い込まれる。後に東亜証券への政治資金スキャンダルで注目を集めた。 小沢 倫太郎 明示会派のホープで幹事長代理だったが、長池の選挙違反発覚に伴って急遽首班指名候補に推され、青杉の後任の内閣総理大臣となる。在任期間中に、ひので丸シージャック事件の対応にあたった。自由と責任党の政治資金問題で日本平和党の連立離脱を招いて総選挙となるが、勝利し平原政権に引き継いで花道を飾る。 シージャック事件で日本政府への国民の反発を避けるために米軍に攻撃させることを考えたり、政治資金問題で注目された東亜証券幹部が自殺で意識不明の重態になった時は回復を求めないことを考えるなどドライな側面がある。 神村 新司 明示党委員長を経て、自由と責任党に合流。首相選出や閣僚人事などで実力者として会合に出て影響力を維持。加治党首体制では政調会長に就任。 栗花落 邦彦 民主進歩連合代表。後に自由と責任党に合流(ただし、一度日本平和党に合流したとの記述がある)。首相選出や閣僚人事などで実力者として会合に出て影響力を維持。加治党首体制では総務会長に就任。 高橋乃里夫 小沢内閣の内閣官房長官。明示会派出身。シージャック事件では強攻策に否定的見解を持っていた。小沢政権の後継首班指名選挙では政権中枢として対応に当たった。 平原 和正 小沢内閣の大蔵大臣。大蔵大臣としてはシージャック事件で安全保障会議の一員として対応に当たった。経済企画庁長官や大蔵大臣を歴任しており財政通としても知られる。小沢辞任に伴って内閣総理大臣に就任、隆介を外務大臣、熱田を大蔵大臣に指名する。短命政権であろうことは周囲も平原も理解していた(依頼された際は意外と長期政権になることもありうると言っていた)。経済問題に苦しみながらも政権を運営したが狭心症で辞任を止む無くされ、道半ばにして隆介に後を譲った。 夫人・史子は婦女暴行事件等で信頼の低下していた米軍海兵隊員との親睦を深めるべく富士登山による交流会を独自に実施するなど、この作品中に登場するファーストレディとしては最も傑出していた人物であった。 熱田 健二郎 愛知県出身。もともと民政党所属で、隆介や渦上の離党後に台頭してきたニューリーダー。 「次代のプリンス」と呼ばれ、鈴鹿後の民政党を牽引する存在と目されていたが、その裏では政治的主張の似通った自由と責任党と組んで保保連合を形成する考えを持っており、野党の立場ながら堂々と隆介に接近して話を持ちかけてきた。 その実現と自身の総理就任のために、民政党がキャッチしていた新党渦潮の株取引スキャンダルを日本平和党にリークして責任党と袂を分けさせた。 そして、平和党・民政党で国民福祉党を結成するタイミングを狙って同志38名とともに民政党を離党して自身の総理就任を条件に責任党に合流を持ちかける。 その内幕は過半数割れで下野の危機にある責任党に救済のための合流を持ちかけることで自身が主導権を握る腹積もりだったが、結局は隆介や小沢からの固辞に遭って総理の椅子の確約は得られず、逆に自派の救済を求める形で責任党に合流することになった。しかし信念を貫いて大勝確実の大政党を敢えて割って出た姿勢が国民にうけ、総選挙での責任党大勝に貢献する。 その後平原政権にて大蔵大臣を務め、平原辞任後の総理の座を巡って隆介と争うが、正々堂々の勝負となった党首選で完敗した。その後は加治党首体制の幹事長に落ち着いた。 熊田 徳夫 衆議院議員。もともと民政党所属で、熱田の側近。「熱田の知恵袋」と呼ばれている。新党渦潮の東亜証券問題を青杉にリークして政権離脱させて政界再編を目論む。加治と熱田による党首選での多数派工作の際に(加治側近の)津坂から一方的にライバル視される。
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