民政党時代
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昭和2年(1927年)4月20日、田中義一内閣が成立した。その後、若槻内閣末期の提携交渉の経緯もあって政友本党内部にも憲政会に接近する動きが進行し床次自身は消極的ではあったものの後藤新平の仲介もあって合流を果たし、6月1日に立憲民政党が結成(憲政会166議席、政友本党88議席)され、二大政党制の土台が整った。床次は民政党の顧問に就任した。なお床次は民政党結党式で「これからは一書生となって党のため国のために奮闘する」と演説している。また、田中内閣が行った東方会議の資料に含まれていた少壮軍人による意見を民政党の有力者が持ち出して中国国民党に渡し、これが田中上奏文に発展した、という説が流れ、床次が関与しているという話も出た。床次が実際に関与したかどうかは不明だが、政界では「床次ならばやりかねない」と見られていたことがわかる。 昭和3年(1928年)2月、総選挙では床次は当選したものの、床次の行動に対する一連の批判を受けて地元鹿児島では床次系以外の当選者が現れ、九州地方の地縁を主体としていた党勢も次第に振るわなくなり、床次王国も凋落の兆しが見え始めた。7月6日、床次は興津の西園寺公望を訪問した。8月1日、対中国不干渉政策に反対との理由で床次は25名の同志とともに民政党を脱党し。院内会派新党倶楽部を結成した。これは総選挙により過半数を割って不安定となった田中内閣を救済するための西園寺の工作であった。これについて筒井清忠は「床次が新党を結成すれば多数を結集でき政権が来るという妄想に動かされていたと言うしかない」と斬って捨てている。また、石橋湛山は「実をいうと床次一派は民政党のガンである。出て行く奴はさっさとこの際出て行かせたほうがよいのだが」と評していた。 西園寺は側近の松本剛吉を使って、昭和4年(1929年)3月9日、工作の結果であった政友会と新党倶楽部は共同で衆議院議員選挙法改正案を提出した。導入されたばかりの中選挙区制から小選挙区制への復帰を狙った内容だったが、政友会・新党倶楽部両党に露骨に有利な選挙区割りであるとして「トコマンデリング」との罵声を浴び、民政党や無産政党、貴族院の激しい抵抗を受け失敗した。
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