民政党時代とは? わかりやすく解説

民政党時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 00:56 UTC 版)

床次竹二郎」の記事における「民政党時代」の解説

昭和2年1927年4月20日田中義一内閣成立したその後若槻内閣末期提携交渉経緯もあって政友本党内部にも憲政会接近する動き進行し床次自身消極的ではあったものの後藤新平仲介もあって合流果たし6月1日立憲民政党結成憲政会166議席政友本党88議席)され、二大政党制土台整った。床次は民政党顧問就任した。なお床次は民政党結党式で「これから一書となって党のため国のために奮闘する」と演説している。また、田中内閣が行った東方会議資料含まれていた少壮軍人による意見民政党有力者持ち出して中国国民党渡し、これが田中上奏文発展した、という説が流れ、床次が関与しているという話も出た。床次が実際に関与したかどうか不明だが、政界では「床次ならばやりかねない」と見られていたことがわかる。 昭和3年1928年2月総選挙では床次は当選したものの、床次の行動対す一連の批判受けて地元鹿児島では床次系以外の当選者現れ九州地方地縁主体としていた党勢次第に振るわなくなり、床次王国凋落兆し見え始めた7月6日、床次は興津西園寺公望訪問した8月1日対中国不干渉政策反対との理由で床次は25名の同志とともに民政党脱党し院内会派新党倶楽部結成した。これは総選挙により過半数割って安定となった田中内閣救済するための西園寺工作であった。これについて筒井清忠は「床次が新党結成すれば多数結集でき政権が来るという妄想動かされていたと言うしかない」と斬って捨てている。また、石橋湛山は「実をいうと床次一派民政党ガンである。出て行く奴はさっさとこの際出て行かせたほうがよいのだが」と評していた。 西園寺側近松本剛吉使って昭和4年1929年3月9日工作結果であった政友会新党倶楽部共同衆議院議員選挙法改正案提出した導入されたばかり中選挙区制から小選挙区制への復帰狙った内容だったが、政友会新党倶楽部両党に露骨に有利な選挙区割りであるとして「トコマンデリング」との罵声浴び民政党無産政党貴族院激し抵抗を受け失敗した

※この「民政党時代」の解説は、「床次竹二郎」の解説の一部です。
「民政党時代」を含む「床次竹二郎」の記事については、「床次竹二郎」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「民政党時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「民政党時代」の関連用語

民政党時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



民政党時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの床次竹二郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS