民政党入党と板垣家永久勘当
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 17:06 UTC 版)
「板垣守正」の記事における「民政党入党と板垣家永久勘当」の解説
昭和3年(1928年)1月26日、祖父退助の創始した自由党の後継政友会の政敵にあたる立憲民政党に入党した。『東京朝日新聞』(昭和3年(1928年)1月27日号)によれば、記者らがことの経緯を取材しようと大久保百人町の守正邸に押し掛けると、守正は故板垣伯の胸像が安置されている二階の六畳間で「僕の民政党いりの理由はこの声明書にすつかり書してありますから」と40枚あまりの声明書を読み上げた。その内容は「要するに祖父の意思を継承して昭和維新の国政のため大いに尽くしたい。民政党に入党した理由は、今の政友会は保守政党に堕しており、祖父の自由党の継承者たり得るものは今の民政党より他は無いからである」という主旨のものであった。同年1月28日に郷里の高知県に帰り、2月1日より民政党を応援する遊説を行ったが、旧自由党の流れをくむ老政客や政友会員らは呆れて、この行動を快しとしない人々が相当に多く、殊に望月圭介、尾崎邦輔らからはこれまで色々と世話になりながらその精誼を無視するような態度をとったことは、関係各位に申し訳が無いとして、板垣本家は当主板垣正貫や今幡西衛らの発意によって、2月2日夜、東京渋谷町長谷戸の板垣邸で親族会議を開き、種々協議の結果、板垣守正を板垣家および肉親関係のある親戚一同より永久勘当することに決した。さらに、翌2月3日午後に当主板垣正貫と伯父今幡西衛らは望月圭介、尾崎邦輔に謝罪せんと政友会本部を訪ねたが両氏とも不在であったため秦幹事長に面会して守正勘当の旨を伝えた。
※この「民政党入党と板垣家永久勘当」の解説は、「板垣守正」の解説の一部です。
「民政党入党と板垣家永久勘当」を含む「板垣守正」の記事については、「板垣守正」の概要を参照ください。
- 民政党入党と板垣家永久勘当のページへのリンク