幹事長にとは? わかりやすく解説

幹事長に

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:49 UTC 版)

望月圭介」の記事における「幹事長に」の解説

1918年大正7年衆議院代表シベリア出兵慰問団団長となる。これは当時寺内内閣米騒動によって倒れ寸前で、次の政権立憲政友会回ってくることを見越して議員多く役職につこう根回しするため東京離れようとしなかったため、望月が「よし誰も行かないのなら俺が行こう」と名乗りを上げことによる重要な役職についたとがないヒラ代議士であったが、衆議院代表として行くことには党の内外問わず誰からも反対されずむしろ最適任者だと歓迎された。慰問先のシベリアでは、形式的なものではなく精力的に慰問した随行した記者青木精一は、列車での行脚であった夜更けであっても兵士見かければ止めさせたとえ数人兵士でも見つけると慰問した、ことを記し、また記者野依秀市は、慰問受けた兵士たちが「代議士中にもこんな気持ちのいい立派な人がいるのか」と感激していた、と記している。同じく記者鈴木文史朗はこれ以前まで望月新聞記者の間であまり評価されていなかったと証言しており、この時の望月の名演説で将兵涙したという話が「人情の人」としての最初評判になる。 このシベリア慰問最中日本初の本格的政党内閣である原内閣誕生、そして原敬総裁によって望月は幹事長に抜擢されのである望月51歳のときである。就任時に以下のようなことをコメントしている。 従来とかく幹事長椅子大臣への登竜門見做され出世段階如く思われてきたが、自分はただ総裁指名受けて就任するのみで、格別これを出世とも栄誉とも思っていない。ただ自分としてはあくまで縁の下の力持ちとして、この重責全うしたいと思っている。またそのかわりにはあくまで理非曲直明らかにして、苟も党のために成らざることは、絶対にこれを拒否するから左様ご承知ありたい。 — 望月圭介、 原の手腕によってこの内時代政友会にとって黄金期となった望月は原に心服しその期待応え、原も望月信頼した望月裏方徹しそして強情であった幹事長はこの時も含めて4回務めることになるが、これは政友会史上望月けになる選挙になると公認資金をもらうため幹事長である望月の前に何人も議員並んだが、「水泳選手じゃああるまいし裸で飛び出されてたまるか」とよく面倒を見た。彼らが党の意向反す言動をすると「赤ん坊の頃におしめを洗って貰ったことを忘れて一人大きくなったような顔をしとるワイ」とひと睨みしたという。 米の値段めぐって高橋是清蔵相山本達雄農相が大衝突した。原が調停入ったが収まらず、原は当時農商務省勅任参事官務めていた望月山本説得依頼した。ところが望月高橋方に向かい一晩中説得する高橋折れた。そして望月が2者の間に入って調整した床次竹二郎内相作成した市町村会議員選挙資格等級撤廃案は、他の閣僚揃って反対の意を示した。原は「首相内相等しく陛下親任頂いているものだ、自分内相存意強制的に左右することはできぬ」と望月に床次を説得し修正するよう頼んだ望月了承し床次と交渉すると、床次は修正案提出した。なお床次と望月共立学校同級生にあたる。 木内重四郎京都府知事汚職疑惑いわゆる豚箱事件において人権蹂躙があったとして、弁護士原嘉道旧知の仲司法大臣兼務していた原敬ところに訴えに来た。原敬理解を示すと、原嘉道は次は議員たちにも訴えよう与党多数派だった政友会に向かうと、望月対応し便宜図った。なお木内憲政会総裁加藤高明娘婿、つまり政友会にとっては政敵親族にあたるが、原敬望月感情流され政治問題として取り扱った1920年大正9年7月総務となる。 1921年大正10年11月4日原敬京都開かれる政友会近畿大会へ向かう途中東京駅乗車口襲撃される原敬暗殺事件)。この時、望月は原に随行しており、元田肇中橋徳五郎小川平吉と共に原を駅長室に運び込み応急処置をしたが手遅れだった。当時党幹部在京だったのが、総務望月と、幹事河上哲太一宮房治郎森恪のみであったため、望月後処理陣頭指揮をとった。まず西園寺公望はじめとする所属両院議員・各府県支部総裁兇変通知すると、同日夜に最高幹部会開催し最善策を協議する。翌5日協議会開き望月により総裁薨去報告党葬決議、などが進められ以降事務処理追われた。原の地元盛岡行われた本葬に党本部代表として出席している。 原の後は高橋引き継ぎ高橋内閣成立するその後加藤友三郎内閣第2次山本内閣清浦内閣短命の非政党内閣続いたこの間政友会から政友本党分裂政友会第一党地位失っている。この時期望月というと政友会幹事長あるいは総務務め高橋総裁裏方として支えており表立った活躍はなかった。1923年大正12年関東大震災では東京自宅長女2人いたが無事だった1924年大正13年憲政会政友会革新倶楽部護憲三派連立内閣加藤高明内閣発足する1925年大正14年農林および商工大臣兼務していた高橋引退することになりその後任として望月商工大臣推薦されたが、望月固辞し岡崎邦輔推薦した岡崎はもう年だからと望月推薦しお互い譲り合う状況になったが、望月岡崎口説く結局大臣になることになり、岡崎農林大臣移り野田卯太郎商工大臣となったこのように大正時代までひたすら裏方徹していたのである

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