幹事長に
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1918年(大正7年)衆議院代表シベリア出兵慰問団団長となる。これは当時寺内内閣が米騒動によって倒れる寸前で、次の政権が立憲政友会に回ってくることを見越して議員の多くが役職につこうと根回しするため東京を離れようとしなかったため、望月が「よし誰も行かないのなら俺が行こう」と名乗りを上げたことによる。重要な役職についたことがないヒラ代議士であったが、衆議院の代表として行くことには党の内外問わず誰からも反対されずむしろ最適任者だと歓迎された。慰問先のシベリアでは、形式的なものではなく、精力的に慰問した。随行した記者の青木精一は、列車での行脚であったが夜更けであっても兵士を見かければ止めさせたとえ数人の兵士でも見つけると慰問した、ことを記し、また記者の野依秀市は、慰問を受けた兵士たちが「代議士の中にもこんな気持ちのいい立派な人がいるのか」と感激していた、と記している。同じく記者の鈴木文史朗はこれ以前まで望月は新聞記者の間であまり評価されていなかったと証言しており、この時の望月の名演説で将兵が涙したという話が「人情の人」としての最初の評判になる。 このシベリア慰問の最中、日本初の本格的政党内閣である原内閣が誕生、そして原敬総裁によって望月は幹事長に抜擢されるのである。望月が51歳のときである。就任時に以下のようなことをコメントしている。 従来とかく幹事長の椅子は大臣への登竜門と見做され、出世の段階の如く思われてきたが、自分はただ総裁の指名を受けて就任するのみで、格別これを出世とも栄誉とも思っていない。ただ自分としてはあくまで縁の下の力持ちとして、この重責を全うしたいと思っている。またそのかわりにはあくまで理非曲直を明らかにして、苟も党のために成らざることは、絶対にこれを拒否するから左様ご承知ありたい。 — 望月圭介、 原の手腕によってこの内閣時代は政友会にとって黄金期となった。望月は原に心服しその期待に応え、原も望月を信頼した。望月は裏方に徹しそして強情であった。幹事長はこの時も含めて4回務めることになるが、これは政友会史上で望月だけになる。 選挙になると公認や資金をもらうため幹事長である望月の前に何人もの議員が並んだが、「水泳の選手じゃああるまいし裸で飛び出されてたまるか」とよく面倒を見た。彼らが党の意向に反する言動をすると「赤ん坊の頃におしめを洗って貰ったことを忘れて一人で大きくなったような顔をしとるワイ」とひと睨みしたという。 米の値段をめぐって高橋是清蔵相と山本達雄農相が大衝突した。原が調停に入ったが収まらず、原は当時農商務省の勅任参事官も務めていた望月に山本の説得を依頼した。ところが望月は高橋の方に向かい一晩中説得すると高橋が折れた。そして望月が2者の間に入って調整した。 床次竹二郎内相が作成した市町村会議員の選挙資格者等級全撤廃案は、他の閣僚が揃って反対の意を示した。原は「首相も内相も等しく陛下の親任を頂いているものだ、自分が内相の存意を強制的に左右することはできぬ」と望月に床次を説得し修正するよう頼んだ。望月は了承し床次と交渉すると、床次は修正案を提出した。なお床次と望月は共立学校の同級生にあたる。 木内重四郎京都府知事汚職疑惑いわゆる豚箱事件において人権蹂躙があったとして、弁護士原嘉道は旧知の仲で司法大臣も兼務していた原敬のところに訴えに来た。原敬は理解を示すと、原嘉道は次は議員たちにも訴えようと与党多数派だった政友会に向かうと、望月が対応し便宜を図った。なお木内は憲政会総裁加藤高明の娘婿、つまり政友会にとっては政敵の親族にあたるが、原敬も望月も感情に流されず政治の問題として取り扱った。 1920年(大正9年)7月総務となる。 1921年(大正10年)11月4日、原敬は京都で開かれる政友会近畿大会へ向かう途中の東京駅乗車口で襲撃される(原敬暗殺事件)。この時、望月は原に随行しており、元田肇・中橋徳五郎・小川平吉らと共に原を駅長室に運び込み応急処置をしたが手遅れだった。当時党幹部で在京だったのが、総務の望月と、幹事の河上哲太・一宮房治郎・森恪のみであったため、望月が後処理の陣頭指揮をとった。まず西園寺公望をはじめとする所属両院議員・各府県支部に総裁兇変を通知すると、同日夜に最高幹部会を開催し最善策を協議する。翌5日、協議会を開き望月により総裁薨去の報告、党葬の決議、などが進められ、以降事務処理に追われた。原の地元盛岡で行われた本葬に党本部代表として出席している。 原の後は高橋が引き継ぎ高橋内閣が成立する。その後は加藤友三郎内閣、第2次山本内閣、清浦内閣と短命の非政党内閣が続いた。この間、政友会から政友本党が分裂、政友会は第一党の地位を失っている。この時期の望月はというと、政友会で幹事長あるいは総務を務め、高橋総裁を裏方として支えており表立った活躍はなかった。1923年(大正12年)関東大震災では東京の自宅に長女と2人いたが無事だった。 1924年(大正13年)憲政会・政友会・革新倶楽部の護憲三派連立内閣・加藤高明内閣が発足する。1925年(大正14年)農林および商工大臣を兼務していた高橋が引退することになりその後任として望月が商工大臣に推薦されたが、望月は固辞し岡崎邦輔を推薦した。岡崎はもう年だからと望月を推薦しお互い譲り合う状況になったが、望月が岡崎を口説くと結局大臣になることになり、岡崎が農林大臣に移り、野田卯太郎が商工大臣となった。 このように大正時代まではひたすら裏方に徹していたのである。
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