幹事長として佐藤後継指名への関与とは? わかりやすく解説

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幹事長として佐藤後継指名への関与

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:48 UTC 版)

三木武夫」の記事における「幹事長として佐藤後継指名への関与」の解説

三木組織調査会としての活動中であった1963年昭和38年7月17日政調会長となる。翌1964年昭和39年7月総裁選で、三木池田の三選を支持した池田の他、佐藤栄作藤山愛一郎出馬した総裁選激しい票の奪い合いとなり、池田第一回投票辛うじて過半数占めて佐藤振り切り、総裁三選を果たす。総裁三選を果たした池田三木幹事長に指名した池田三選に貢献して幹事長となった三木であるが、総裁選時に早川崇ら派内の佐藤グループ連判状作成し三木意向反して佐藤支持訴えていた。派閥の分裂回避したものの、この意見対立以降三木派閥運営苦心するうになる幹事長就任直後胃壁穴が空くほどの重い胃潰瘍患い入院することになった三木かねてから胆石があることが分かっていたため、1964年昭和39年8月初めに胃と胆嚢の手術を行った三木手術の結果次第体調回復向かったが、8月末、今度は三選を果たしたばかりの池田が喉に異常を訴えた喉頭ガンであった9月には入院し1964年東京オリンピック閉会式翌日10月25日退陣表明した幹事長三木話し合いでの後継総裁選出を提案し話し合いプラス総裁指名という方式池田後継総裁選ばれることになった。 この時の後継総裁候補佐藤栄作河野一郎藤山愛一郎の3名であった話し合い調整三木副総裁川島正次郎当たった三木川島候補3名、各派閥の領袖始め多く自民党国会議員との会談意見交換重ね意見集約していった。 3名の総裁候補の中では、7月総裁選池田に迫る得票集めた佐藤極めて有利であった河野は強引さが自民党内で反発買っているのが難点であったが、池田政権後半政権大きく貢献しており、池田指名期待していた。また藤山佐藤河野対立激化した場合指名されることを期待していた。三木官僚出身佐藤とは政治理念政治行動一致しない面も多かったが、党内多数支持している佐藤以外の推薦は困難であった結局臨時国会首班指名が行われる11月9日の朝、三木川島佐藤推薦し、それを受けて池田佐藤後継総裁指名した。 しかし三木佐藤推薦に、三木長年行動を共にして三木松村派共同代表務めていた松村謙三強く反発した松村佐藤総裁阻止するために水面下藤山を反佐藤統一候補とする調整続けていたが、松村調整無視する形で三木佐藤総裁候補推薦したことに怒ったのである結局松村古井喜実川崎秀二議員5名とともに三木松村派脱退して松村派結成し三木松村派三木派となった

※この「幹事長として佐藤後継指名への関与」の解説は、「三木武夫」の解説の一部です。
「幹事長として佐藤後継指名への関与」を含む「三木武夫」の記事については、「三木武夫」の概要を参照ください。

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