幹事長として佐藤後継指名への関与
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「三木武夫」の記事における「幹事長として佐藤後継指名への関与」の解説
三木は組織調査会長としての活動中であった1963年(昭和38年)7月17日、政調会長となる。翌1964年(昭和39年)7月の総裁選で、三木は池田の三選を支持した。池田の他、佐藤栄作、藤山愛一郎が出馬した総裁選は激しい票の奪い合いとなり、池田は第一回投票で辛うじて過半数を占めて佐藤を振り切り、総裁三選を果たす。総裁三選を果たした池田は三木を幹事長に指名した。 池田三選に貢献して幹事長となった三木であるが、総裁選時に早川崇ら派内の親佐藤グループが連判状を作成し、三木の意向に反して佐藤支持を訴えていた。派閥の分裂は回避したものの、この意見対立以降三木は派閥運営に苦心するようになる。幹事長就任直後、胃壁に穴が空くほどの重い胃潰瘍を患い、入院することになった。三木はかねてから胆石があることが分かっていたため、1964年(昭和39年)8月初めに胃と胆嚢の手術を行った。 三木は手術の結果、次第に体調が回復に向かったが、8月末、今度は三選を果たしたばかりの池田が喉に異常を訴えた。喉頭ガンであった。9月には入院し、1964年東京オリンピック閉会式翌日の10月25日に退陣を表明した。幹事長の三木は話し合いでの後継総裁選出を提案し、話し合いプラス総裁指名という方式で池田の後継総裁が選ばれることになった。 この時の後継総裁候補は佐藤栄作、河野一郎、藤山愛一郎の3名であった。話し合い調整は三木と副総裁の川島正次郎が当たった。三木と川島は候補3名、各派閥の領袖を始め、多くの自民党国会議員との会談、意見交換を重ね、意見を集約していった。 3名の総裁候補の中では、7月の総裁選で池田に迫る得票を集めた佐藤が極めて有利であった。河野は強引さが自民党内で反発を買っているのが難点であったが、池田政権後半は政権に大きく貢献しており、池田の指名に期待していた。また藤山は佐藤、河野の対立が激化した場合に指名されることを期待していた。三木は官僚出身の佐藤とは政治理念や政治行動が一致しない面も多かったが、党内の多数が支持している佐藤以外の推薦は困難であった。結局、臨時国会で首班指名が行われる11月9日の朝、三木と川島は佐藤を推薦し、それを受けて池田は佐藤を後継総裁に指名した。 しかし三木の佐藤推薦に、三木と長年行動を共にして三木・松村派の共同代表を務めていた松村謙三は強く反発した。松村は佐藤総裁を阻止するために水面下で藤山を反佐藤の統一候補とする調整を続けていたが、松村の調整を無視する形で三木が佐藤を総裁候補に推薦したことに怒ったのである。結局松村は古井喜実、川崎秀二ら議員5名とともに三木・松村派を脱退して松村派を結成し、三木・松村派は三木派となった。
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