大正時代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 14:08 UTC 版)
天平19年(747年)の『法隆寺資財帳』には壁画についての記載が見られない。しかしこれは当時壁画が存在しなかったということではなく、壁画は金堂の建物と一体のものとして「資財」とはみなされていなかったものと推定されている(8世紀後半の制作とする説もある)。壁画について言及した最古の文献は、嘉承元年(1106年)頃に大江親通が著した『七大寺日記』である。ここで大江親通は壁画を「鞍作鳥」すなわち、法隆寺金堂本尊の作者である止利仏師の筆としており、当時そのような伝承のあったことがわかる。鎌倉時代、法隆寺の僧・顕真が著した『聖徳太子伝私記』も壁画の筆者を鞍作鳥としている。 江戸時代中頃に伽藍修復の喜捨を募るために、金堂の公開が行われたことから金堂壁画への関心が高まった。嘉永5年(1852年)に養鸕徹定の侍僧祐参によって記録に残る最古の模写が行われ、現在は山梨県の放光寺に所蔵されている。この時行われた模写は原色を使用した想定復原模写であり、現状模写では無い。 明治時代になってヨーロッパからの来訪者が日本美術に関心を示すようになり、金堂壁画もその対象となった。1883年(明治16年)にパリの美術商ジーグフリート・ジングの息子マルセル・ビングの嘱託によって奈良県の画家モリモト・シンザンが6号壁壁画の模写を行い、現在はギメ美術館に収蔵されている。翌1884年(明治17年)にはアーネスト・サトウの嘱託によって、復古やまと絵派の画家田中有美の門人桜井香雲が9号壁壁画の模写を行っている。模写はウィリアム・アンダーソンのアンダーソン・コレクションに加えられ、現在は大英博物館に収蔵されている。外国人からの評価によって金堂壁画の貴重さや芸術的価値が徐々に認められるようになり、1887年(明治20年)頃に帝室博物館のために香雲が再度模写を行っている(模写は東京国立博物館蔵)。また、1907年(明治40年)から1931年(昭和6年)頃にかけて鈴木空如という画家も模写を行っている(模写は秋田県大仙市所蔵)。 古社寺保存法(文化財保護法の前身にあたる旧法)が公布された1897年(明治30年)には壁画をガラスで覆って保護することが検討されたが実現はしなかった。1915年(大正4年)には文部省に法隆寺壁画保存方法調査委員会が設置されたが、これはその2年前に死去した岡倉覚三(天心)の発案によって設置されたものであった。この委員会は4年後の1919年(大正8年)に科学的保存方法についての報告を出した後、解散。壁画の科学的保存処置については、一部の壁で試験が行われたのみで具体的には進展しなかった。この間、1917年(大正6年)には壁画を保護するためのカーテンが設置され、翌年から壁画は春秋の一定期間のみ公開することになった。
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