壁画の模写
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:05 UTC 版)
19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ諸国の探検家・東洋学者たちが中央アジア・西域の遺跡を調査し、壁画をはじめ多くの遺物を持ち帰ったことがある。日本画の源泉とでもいうべき貴重な壁画の重要性を感じていた日本の美術史研究家、東京帝國大学の松本亦太郎教授、京都帝國大学の沢村専太郎助教授らは、これらの西域壁画を模写できないものかと考えていた。そこで白羽の矢が立ったのがパリ遊学中の長谷川路可である。その経緯については諸説がある。 路可の話によれば、1924年ブリュッセルで開かれた国際学術会議に松本教授が参加した際、路可が大使館から依頼されて通訳を務めたときにその仕事ぶりが信頼され、松本教授から模写を依頼されたという。路可は留学中の身だからと固辞したが、西域の壁画こそ日本画の源泉という指摘が路可を決断させた。また、路可がルーブル美術館でドラクロワの『タンジールの舞女』を模写をしていたところに東京美術学校教授の結城素明が現れて路可に西域壁画の模写を打診し、折から来仏していた沢村専太郎助教授を紹介したという話も伝わっている。沢村助教授は、路可の模写期間中、作業に付き添って交渉その他のマネージメントを引き受けた。 一般の画家が練習用に模写するのと違い、考古学的な資料として模写するのであるから、「重ね描き」といって直に作品に和紙を重ね、ときにめくって確かめながら写し取るという方法で正確に模写が行われた。足掛け3年、折衝期間などを除いた正味約1年8ヶ月の歳月をかけて、70数点に及ぶ模写が行われた。これらの模写作品は、現在東京国立博物館、東京大学、京都大学、東京芸術大学に分割所蔵されており、特に東京国立博物館では東洋館で定期的に架け替えながら常設展示されている。 路可が模写を行った場所は次の施設である。 フェルケルクンデ(民族学)博物館(ドイツ・ベルリン)アルベルト・グリュンヴェーデルおよびル・コックによるキジール石窟など。 大英博物館(イギリス・ロンドン) オーレル・スタインによる敦煌。 ルーブル美術館(フランス・パリ) ポール・ペリオによる敦煌。 ギメ東洋美術館(フランス・パリ) ポール・ペリオによる敦煌。 ベルリンのフェルケルクンデ博物館の収蔵品の多くが、第二次大戦の戦禍のために失われ、戦後に移管されたインド美術館を経てアジア美術館に継承されたものを除き、路可の模写のみが原寸大・彩色史料としては、世界唯一となったものが少なくない。 もう一つのケースは、路可がチヴィタヴェッキアの日本聖殉教者教会の壁画の制作を進めていたときに、ブリヂストンの創業者石橋正二郎の依頼によるものである。自分の使いたい絵の具のためには自らが負担しても構わないという路可の仕事ぶりに感銘した石橋は、バチカン美術館所蔵のポンペイ壁画やルネサンス期の名画のいくつかを模写することを条件に、多額の寄付を申し出た。これらの模写作品は、石橋美術館・ブリヂストン美術館に分けて収蔵され、ブリヂストン美術館の4作品は、館内のティールーム「ジョルジェット」に常掲されていた。
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