壁画の劣化、今後の課題
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「高松塚古墳」の記事における「壁画の劣化、今後の課題」の解説
発掘調査以降、壁画は現状のまま現地保存することになり、文化庁が石室内の温度や湿度の調整、防カビ処理などの保存管理、そして1981年以降年1回の定期点検を行ってきた。しかし、2002年から2003年にかけて撮影された写真を調べた結果、雨水の浸入やカビの発生などにより壁画の退色・変色が顕著になっていることが2004年に明らかにされた。 高松塚古墳壁画のカビによる劣化が一般に知られるようになったのは、文化庁が2004年6月に出版した『国宝高松塚古墳壁画』により現状が明らかになり、新聞で大々的に報道されてからである。1972年の壁画発見当時、石室内には南壁の盗掘孔から流れ込んだ土砂が堆積しており、東壁の男子群像の右半分など、土砂や地下水の影響で画面が汚染されている部分もあったが、壁画の大部分には鮮明な色彩が残されていた。これらの壁画は切石に直接描いたものではなく、切石の上に数ミリの厚さに塗られた漆喰層の上に描かれているが、漆喰自体が脆弱化しており、剥落の危険性が懸念されていた。また、1,300年近く土中にあり、閉鎖された環境で保存されてきた石室が開口され、人が入り込むことによって温湿度などの環境変化、カビ、虫などの生物による壁画の劣化が懸念された。劣化をいかに食い止め、壁画を後世に伝えていくかについては、発見当初からさまざまに検討されていた。 石室は大人2人がかがんだ姿勢でようやく入れる程度の広さしかなく、スペースの点だけを考えても、現地での一般公開は到底不可能であった。石室内は相対湿度が100%近い高湿の環境であり、修理や調査のために人が短時間石室内に入っただけでも温度の上昇と湿度の低下をもたらした。壁画の保存方法については内外の専門家からさまざまな意見が出され、石室から壁画を剥がして別途保存する方法を含め、さまざまな案が検討されたが、最終的には石室は解体せず、壁画は現地で保存することに決した。 その後、石室南側の前室部分に1974年から空調設備を備えた保存施設の建設が始まり、1976年3月に完成をみた。この保存施設は前室、準備室、機械室からなり、石室内部の温湿度をモニターしつつ、前室内の温湿度をそれに合わせて調整するものである。留意すべき点は、この保存施設は、古墳の石室内の温湿度を直接的に制御するものではなく、石室内の自然の温湿度の変化に合わせて前室の温湿度を調整しているという点である。つまり、点検修理等のために石室に人が入る際に、外部の温湿度の影響を受けないように、保存施設内の温湿度をあらかじめ石室内と同様の条件に調整する役目をもっている。壁画の保存修理工事は1976年9月から第1次、第2次、第3次に分けて実施され、1985年をもって第3次修理が終了している。この間、1980年にカビの大量発生をみるが、この時は薬品等を用いた除去策が功を奏した。 次にカビの大量発生をみたのは2001年である。同年2月、石室と保存施設との間の取合部(とりあいぶ)と呼ばれる部分の天井崩落防止作業を行った際、作業員が防護服を着用せずに入室したことが、結果的に大量のカビ発生につながったと指摘されている。「取合部」とは、保存施設と石室の境の、土がむき出しになっている部分である。壁画の劣化はこの時に突如始まったものではなく、徐々に進行していたものであるが、文化庁がカビ発生や壁画劣化の事実を公表していなかったため、国民の不信を招くこととなった。 その約1年後の2002年1月28日に西壁の損傷事故が起きた。この日、修復に当たっていた担当者の一人が誤って空気清浄機を倒し、西壁男子群像の下の余白に傷をつけた。同日、別の担当者が室内灯に接触し、西壁男子像の胸の部分の漆喰が剥落した。この2つの事故のうち、前者は絵のない余白部分についた傷であり、後者は壁画発見当時から流入土砂で汚損され、オリジナルの彩色が残らない部分であったため、石室外の土を水で溶いたもので修理がなされ、文化庁では「通常の修理」の範囲内であるとして、これらの事故を公表していなかった。 2003年3月、国宝高松塚古墳壁画緊急保存対策検討会が設置され、翌2004年6月には「緊急」を「恒久」に変えた国宝高松塚古墳壁画恒久保存対策検討会が発足した。同じ2004年6月には『国宝高松塚古墳』(文化庁監修、中央公論美術出版刊)が発刊され、壁画の劣化、特に西壁の「白虎」の著しい劣化が明らかとなった。2004年6月20日付け「朝日新聞」大阪本社版朝刊が「白虎」の劣化を大々的に報じたことで壁画の劣化問題が一般国民の関心を引くこととなった。 壁画の劣化防止策や保存方法について種々の検討が続けられた。特別史跡(古墳)と国宝(壁画)のいずれを守るのか議論が行われた。将来へ向けての壁画の修復と保存のあり方については、古墳の墳丘全体を保存施設で覆う方法、壁画を取り出して他の施設で恒久保存する方法など、あらゆる可能性が追求されたが、最終的に、壁画の描かれている石室をいったん解体・移動して修復し、修復完了後に元に戻すという方式が採用され、2005年6月27日、国宝高松塚古墳壁画恒久保存対策検討会において、この方法を採用することが決定された。一部には、キトラ古墳同様に壁画を剥ぎ取って古墳外で保存すべきだという意見もあるが、計画では修復後に現地に戻すことになっている。 石室を解体し、壁画の描かれた切石を取り出すということは、見方によっては、特別史跡である墳丘の破壊である。これを受けて、同年10月25日、日本考古学協会は「特別史跡高松塚古墳の保全・保護を求める声明」を出し、史跡は現地で保存されるべきであると主張した。同年8月4日、飛鳥保存財団は「現地修復要望書」を文化庁と保存対策検討会に提出、明日香村議会は同年8月11日、壁画の現地保存対策要望を決議し、文化庁に提出するなど、関係者の間には現地での保存修復を望む声も依然高かった。 2001年から2002年にかけて起きたカビの大量発生と西壁の損傷事故については第三者による調査委員会(高松塚古墳取合部天井の崩落止め工事及び石室西壁の損傷事故に関する調査委員会、座長:石沢良昭・上智大学学長)において再調査された。同委員会は2006年6月19日に報告書を国へ提出。そこでは、文化庁の縦割りセクショナリズムの弊害、情報公開への意識の低さなどが指摘されている。高松塚古墳の場合、特別史跡である古墳自体は文化庁記念物課、国宝である壁画は美術工芸課(2001年1月より「美術学芸課」と改称)の管轄であり、両者の連携が十分ではなかったとされている。2001年2月の天井崩落防止工事に伴うカビの大量発生については、作業員が滅菌した防護服を着用していなかったことが原因とされている。この工事は記念物課が発注したが、現場の管理は美術学芸課にまかせきりで、記念物課の職員は工事に一切立ち会わなかった。東京文化財研究所には工事を実施すること自体が知らされていなかった。また、防護服の着用などを定めた「保存修理マニュアル」の存在も現場に周知されておらず、結果的にカビの大量発生を招いた。しかも、カビ発生の事実が公表されたのはそれから2年も後のことであった。2002年1月には前述のとおり西壁の2箇所に損傷が生じているが、文化庁はこの事実を公表せず、傷が目立たないように補彩していた。補彩は上記の西壁の2箇所以外に東壁、北壁、天井にも行われていたがこれについても公表されなかった。また、西壁損傷事故の2年前の2000年3月21日に撮影された(損傷前の)壁画写真を「最新の写真」と偽って新聞社に提供していたことも明らかになった。 この事態を受けて、文化庁により「国宝高松塚古墳壁画恒久保存対策」を目的とした古墳の発掘調査が始まり、埋もれていた周溝などが発見されて古墳の本来の形状が明らかにされつつある。また、墳丘からは過去の地震によると思われる亀裂が多数発見されており、虫や雨水の進入経路になったと考えられている。 墳丘の発掘調査と石室の解体修理は2006年10月2日に開始された。2007年1月には古墳全体を覆う断熱覆屋が完成、内部の温湿度は10℃、90%に保たれた。同年3月12日には国営飛鳥歴史公園内に修理施設が完成した。石室はいったん解体・搬出した後、この修理施設へ移され、修復が行われることになった。4月5日には4枚の天井石のうちの1枚がクレーンで吊り上げられ、専用車両で修理施設へと移された。以後、4枚の天井石と8枚の壁石は1枚ずつ移動され、5月10日・11日には「西壁石3」と呼ばれる、「飛鳥美人」が描かれた石が移動された。最後の12枚目の壁石(西壁石1)が移動されたのは6月26日のことである。 修理中の2008年11月25日に顔料分析中、東壁女子群像の顔料部分を機材で損傷する事故を起こしている。 その後は保存施設の撤去と共に発掘調査に基づく形状の復元工事が行われ、2009年10月24日から一般公開された。墳丘の角度が急であるため、植垣と柵で囲まれており、立ち入りはできないようになっている。 2020年3月26日、12年かけた壁画の修復が終わる。
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