東京美術学校校長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 06:26 UTC 版)
30年以上東京美術学校校長を務めた正木直彦が1932年に辞任すると、和田が後任の校長に就任。美術家出身の東京美術学校長は和田が最初にして最後である。東京美術学校では刑部仁や野口謙蔵などの後進を育てている。1933年には史蹟名勝天然記念物調査委員会の委員となった。1934年12月3日には帝室技芸員に命じられた。1936年には妹であるチマと青山彦太郎の息子青山新、新の妻青山茂と養子縁組を結んだ。 1936年には平生釟三郎文部大臣によって帝国美術院の再改組が行われたが、和田ら14人の連署によってこの再改組に反対し、帝国美術院会員と東京美術学校長を辞した。校長退任後には従三位に叙せられ、東京美術学校の名誉教授となっている。同年には明治神宮外苑の聖徳記念絵画館に壁画『憲法発布記念式』を完成させ、さらには宮内省の命による『山本内閣親任式』を製作した。『憲法発布式』は今日の日本の歴史教科書に掲載されている。『山本内閣親任式』は1936年9月1日に昭和天皇に献上され、昭和天皇が暮らす吹上御所(吹上大宮御所)の大広間に掛けられた。 1937年に帝国美術院が廃止され、帝国芸術院が設立されるとその会員となった。同年にベルリン国立博物館のオット・キュンメル(ドイツ語版)が日本を訪れた際には、外務大臣官邸での茶会に招待された。1940年から1943年の夏季と冬季には、奈良県生駒郡法隆寺村の法隆寺金堂壁画(第5号壁画)の模写を行っており、模写用の照明として当時研究中だった蛍光灯を導入している。1943年には文化勲章を受章した。
※この「東京美術学校校長」の解説は、「和田英作」の解説の一部です。
「東京美術学校校長」を含む「和田英作」の記事については、「和田英作」の概要を参照ください。
- 東京美術学校校長のページへのリンク