大正時代の門司市
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 03:17 UTC 版)
「門司の歴史#大正時代」も参照 1914年(大正3年)には、門司港に入港する汽船トン数が神戸港や横浜港をしのいで全国1位となるなど、門司市は貿易港として繁栄した。また、門司港地区の桟橋通り周辺には、多くの銀行や商社が集まり、道路にはガス灯がともり、「一丁倫敦」と呼ばれた。 桟橋通りや西本町付近は、門司築港第1期工事(明治24年竣工)で埋め立てられた地域、東本町は、第2期工事(明治30年竣工)で塩田を埋め立てた地域であり、埋立地内には、銀行・商社が集まる金融街のほかにも、カフェ、西洋料理店、遊郭などが集まる歓楽街が形成された。市内を九州電気軌道の路面電車(北九州線)が走り、市民の足として親しまれた。東本町の埋立地の周辺には、第1船溜りと第2船溜りを結ぶ幅12メートルほどの水路(堀川)が設けられていた。堀川には、沖仲仕(港湾労働者)を沖の本船に送る多数の小舟が出入りしていたが、次第に汚れが目立ち始め、1933年(昭和8年)に埋め立てられて道路となった。 他方、沖仲仕らの生活は厳しく、路地裏には、木賃宿や粗末な納屋が立ち並んでいた。沖仲仕らの不満もあって、1918年(大正7年)の門司の米騒動は大規模化し、小倉第12師団が出動して鎮圧する事態となった。
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