大正時代以降
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1918年(大正7年)、漆の塗り替えが行われた。1944年(昭和19年)、神橋は当時の国宝保存法に基づき旧国宝(現行法の重要文化財)に指定された。同年に神橋と日光橋の間に日光電車用の橋が架橋された。 木部の腐食が激しかったことから、日光二荒山神社の委任を受けた日光2社1寺文化財保護委員会が1950年(昭和25年)4月1日より解体修理に着手し、1956年(昭和31年)に完了した。総事業費は2340万7千円で、この時、乳の木以外の木材はすべて新しいものに交換した。1962年(昭和37年)12月、2代目の日光橋が架橋された。1968年(昭和43年)、日光電車軌道は廃止された。 1973年(昭和48年)より、男体山頂鎮座1200年祭(1982年〔昭和57年〕)に向けた奉賛事業の一環で一般公開(一般人の渡橋の許可)が行われるようになった。1990年(平成2年)6月15日(県民の日)に「神橋周辺の大谷川」の名称で「とちぎの道と川百選」の1つに選ばれた。橋であるため、文化財でありながら雨ざらしを免れず、欄干や橋板の塗装のはげ落ち、外観の損傷が著しくなってきたことから、1997年(平成9年)より大改修が始まり、2005年(平成17年)に完了した。この間、1999年(平成11年)12月に世界遺産に登録された。 2018年(平成30年)、栃木県のデスティネーションキャンペーン(DC)の特別企画として、ライトアップされた夜間に神橋を渡ることができる企画が実施された。2019年(平成31年/令和元年)、日光二荒山神社が恋人の聖地サテライトに認定され、5月7日に神橋で認定式と記念イベントが開かれた。式典には選考委員の桂由美が出席し、桂がデザインしたドレス(葛飾北斎の描いた霧降の滝をモチーフ)をまとった元バレーボール選手の福田舞が神橋を渡った。2020年(令和2年)9月16日には恋人の聖地サテライトの象徴として「良縁の鈴」が神橋に設置された。
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大正時代以降
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1920年(大正9年)、石狩町から知津狩を通り、望来・嶺泊・古潭を経由して厚田まで電柱が建てられたため、望来市街に初めて電灯が点く。市街と言っても30 - 40戸の集落ではあるが、郵便局や巡査派出所が置かれ、商店も数軒建ち並ぶほどに発展していた。また開拓も奥地まで進行しており、本沢正利冠まで定住者がいた。 1930年(昭和5年)ころ、当別から八の沢石油鉱を経由し、春別・正利冠を通って越後沢から本沢を横断、嶺泊から古潭・厚田に向かう送電ルートが新設された。望来市街の電力はこの新ルートから供給されるようになったため、本沢大橋から市街までの民家にも電灯が点くようになった。 1945年(昭和20年)7月15日、アメリカ軍による空襲を受ける。 1947年(昭和22年)4月、望来中学校設立。 1949年(昭和24年)、望来全域に電灯が普及する。 1954年(昭和29年)、本沢の渡辺家の泉から水を引いて4キロメートルの望来簡易水道が設けられたが、夏の渇水時には給水制限せざるを得ないものだった。 1978年(昭和53年)、厚田村簡易水道が引かれる。 2007年(平成19年)3月、望来中学校閉校。 2019年(平成31年)3月、望来小学校は厚田小学校へ統合され、閉校した。 旧・望来小学校 旧・望来中学校
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大正時代以降
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1917年(大正6年)の秋、小学校が拡張を続ける集落に合わせて中心部へと移転した。 1918年(大正7年)4月、石狩の来札に農業信用購買販売組合が創設され、農業経営を支援するようになった。 1924年(大正13年)秋、開村三十年記念式典が挙行されたころは、114戸約600人を抱える集落となっていた。 1926年(大正15年)に厚田・石狩間のバス路線が運行開始となり、交通が整ったことで道路のみならず河川治水も改修が進んで、田畑酪農の多角経営部落が実現する。 1945年(昭和20年)には灌漑用として電力が導入され、これが延長されて各戸に電気が届けられるようになった。 1952年(昭和27年)5月、聚富中学校が独立開校。 1988年(昭和64年)、水道開通。 1994年(平成6年)9月、聚富開村百年之碑が建立される。 2020年(令和2年)、聚富小中学校は石狩市立厚田学園へと統合され閉校した。
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大正時代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/05 05:27 UTC 版)
1913年(大正2年)- 本殿・幣殿を改築。 1950年(昭和25年)- それまでの「八幡神社」から「遠野郷八幡宮」と改称。昭和26年には出雲大社の御分霊のほか、三柱の神を合祀する。 1967年(昭和42年)- 創建780年・現在地遷宮300年を記念して幣殿・拝殿を改築。昭和62年『遠野郷八幡宮創建八百年誌』刊行し、八百年大祭を執行。 2002年(平成14年)- 遠野郷八幡宮創建820年・現在地遷宮350年記念事業を興し、平成15年に本殿屋根改修、幣殿を改築、平成16年に「お待殿(参拝者控え室)」を改築。平成19年に社務所を改築、同10月には『遠野郷八幡宮創建820年 現在地遷宮350年記念事業完成記念誌』刊行、記念事業完成奉告大祭を行った。
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大正時代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 20:02 UTC 版)
「信州善光寺仲見世通り」の記事における「大正時代以降」の解説
元善町は、本来仲見世として商業を中心として成立し発展してきたが、大正から昭和にかけての戦時下では、参拝客の激減や統制経済により、廃業する店も増え始め、商業活動は壊滅状態に陥った。戦後になると、高度経済成長の波に乗り参拝客が再び増加し、大量の参拝客を迎える商店も改装工事が進められるようになった。さらに、交通の発展に伴い、善光寺本堂の脇にも駐車場が整備され、大型バスやマイカーでの参拝も受け入れられるようになった。よって、仲見世通りは復興を遂げ、現在では長野市の観光における中心的な存在となっている。
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大正時代以降
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1913年(大正2年)5月19日から加久藤村(後のえびの市)で地震が多発する前兆現象があった。半年後の11月8日夜11時に爆発し、高温の噴石と火山灰を放出した。12月9日と翌1914年1月8日にも爆発し噴石を放出している。1923年(大正12年)7月11日朝9時には大音響とともに噴火し、噴煙のため登山者1名が死亡した。 2002年以降、しばしば火山性微動が観測されている。
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