大正時代の時代劇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 09:27 UTC 版)
1912年(大正元年)にそれまでの横田商会、福宝堂、M・パテー商会、吉沢商会の4つの映画会社が合同して「日本活動写真(株)」(日活)が誕生した。日本で初めての本格的な映画会社であった。日活は東京向島と京都二条城に撮影所を設け、向島は新派を京都二条では旧劇を製作することとなった。そしてマキノ省三と尾上松之助は日活に所属した。これとは別に1914年(大正3年)に「天然色活動写真(株)」(天活)が設立されて吉野二郎と澤村四郎五郎らが所属した。 そして1920年(大正9年)頃までは旧派であった歌舞伎の影響下にあり、女性の役柄は女形が演じていて、後に時代劇の監督になった衣笠貞之助はこの時期は日活向島撮影所の女形であった。 その一方で帰山教正が1919年(大正8年)に新劇を映画に導入した現代劇である『生の輝き』、『深山の乙女』を発表し、その翌年1920年(大正9年)にそれまで歌舞伎の興行しか手掛けてこなかった松竹が松竹キネマを興し、新劇の小山内薫が、同年松竹キネマに招かれて活動写真を撮り始めると、松竹は初めから女形を使わず、女優を映画に起用した。その中から川田芳子、柳さく子、飯塚敏子らが松竹時代劇のスターとなった。 この頃に松竹が映画事業に乗り出したのは、自社が経営する劇場よりも松竹が当時日活に貸していた大阪道頓堀朝日座での客の入りが良く、白井竹次郎が映画に乗り出すべきとの提唱から大谷竹次郎が末弟の信太郎を渡米させ、アメリカの映画事業を調査させてから参入したのであるが、大谷竹次郎はその時に「日本映画の俳優は一流の舞台では用いられない落伍者の集まりであり、このままでは世界の映画界に肩を並べることはできない」として「世界に恥ずかしくないものを作り、映画を輸出する」ことを視野に置いていた。そのためには女形は最初から使わないと決めていた。また旧劇については日活の尾上松之助の歌舞伎的な殺陣に対して新国劇を専属にしてリアリズムな殺陣を打ち立てようとしていた。 1922年(大正11年)頃までは日活は現代劇でも新派の影響で女形を起用していたが、その年の暮れに女形を交えた新派役者10数人が国際活映(国活)に移籍したため、それまでの女形起用を止めて女優を起用し、新劇的な現代劇を製作し始める。その時に日活における名称が、時代劇は「日活旧劇部」、現代劇が「日活新劇部」であった。その当時は東京でも、巣鴨の国際活映(国活)等で時代劇映画は盛んに製作されていたが、新劇の発展と映画への導入が東京主導で行なわれ、やがて国活が倒産し、人材が京都に流出したことでその後の「時代劇の京都」と「現代劇の東京」との棲み分けの源流となった。またマキノ省三は尾上松之助の映画で女形を使って、女優は使っていなかったが、日活は1924年(大正13年)に尾上松之助主演『渡し守と武士』で初めて女優を使っている。 日活向島撮影所でも1923年(大正12年)に松竹に刺激され女優の採用を始めて「第三部」というセクションを設け、女優起用の映画を製作した。この年の現代劇『朝日さす前』がその第一作で、後に日活時代劇の大スター酒井米子を輩出している。同年9月、東京を関東大震災が襲い、日活向島撮影所は閉鎖。女優やスタッフは日活京都に移り、以後、京都が時代劇映画の本場となった。
※この「大正時代の時代劇」の解説は、「時代劇」の解説の一部です。
「大正時代の時代劇」を含む「時代劇」の記事については、「時代劇」の概要を参照ください。
- 大正時代の時代劇のページへのリンク