大正時代の「幻の発見」
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「糸魚川のヒスイ」の記事における「大正時代の「幻の発見」」の解説
青木重孝監修の『糸魚川市史第1巻』(1976年)では、糸魚川では大正時代に2回ヒスイの発見(ただし確証なし)があったことを記述している。最初は1917年(大正6年)の秋のことで、青木自身が根知付近の道路で轍の中に2個に割れた緑色の石を見つけている。青木は当時旧制糸魚川中学校2年生で、その石を同校で博物と地理の教師を務めていた今井一郎に見せた。今井は即座に「これは日本にはない珍しい鉱物」と言い、その石は校内に保管された。1923年(大正12年)にはその石を八幡一郎が見たといわれる。1951年(昭和26年)12月31日付の新潟日報の記事によれば、後藤守一は1930年代(1931年-1932年頃)に、同校の鉱物標本室で「富山県黒部峡谷産」のヒスイを見たという。ただし、後藤の見た「ヒスイ」が青木が採集したものと同一であるかは不明の上、その後青木の採取した「ヒスイ」は1945年頃を最後に行方がわからなくなった。 2回目は1923年(大正12年)のことであった。発見者は八幡で、彼は北陸旅行の際に糸魚川を訪問した。その際に長者ヶ原遺跡に立ち寄って白色緻密で緑班のある石を拾い、東京まで持ち帰った。八幡は東京帝国大学理学部地質学教授の坪井誠太郎にこの石の鑑定を依頼した。坪井はこの石について白色の石英岩であり、緑班は変質鉱物と鑑定している。八幡は後の勤め先となった高樹町(現在の東京都港区南青山)にあった資源科学研究所でこの石を保管していた。しかし、この石も1945年(昭和20年)5月に起きた山の手大空襲で資源科学研究所もろとも焼失した。 宮島宏は『国石翡翠』(2018年)と『日本の国石「ひすい」-バラエティーに富んだ鉱物の国-』(2019年)において、2つの石について考察している。青木の発見した石について「道路の轍で割れていた」という記述から、宮島は「強靭な翡翠は荷車で踏まれたぐらいでは割れない」と疑義を呈した。石を「ヒスイ」と鑑定した今井は地質学の専門家ではなく、なぜ即座に「これは日本にはない珍しい鉱物」と断定したのか、また、なぜ学会に発表しなかったのか不明である。青木が石を見つけた当時、日本産のヒスイはないと考えられていた。50年以上が経過した1972年(昭和47年)の新潟日報の記事によると、今井は日本にはない鉱物の名前を言ったものの、青木はその名前を嬉しさのあまりに聞き流していたという。宮島はこの記述について、今井がその後2年半以上同校に勤務していたことと、石が標本室に展示されていたことから、なぜ青木が再確認を行わなかったのかという点にも疑義を呈している。宮島は後藤が1930年代初めに見たというヒスイの礫(青木が発見したとされるもの)についても検証し、「(日本)国内で翡翠が発見されていない時期に、翡翠原石が発見されていたことは、国内の翡翠産地の存在を示唆する極めて重要な証拠と考えられる」とした。ただし、後藤はこの件について約20年を経過した1951年(昭和26年)まで公表していなかった。 八幡が発見した石も既に失われていることから、坪井による鑑定の正誤を問うことは不可能である。しかし、宮島は八幡(1941年)や糸魚川市教育委員会(1964年)序言に、坪井が鑑定した石こそ実はヒスイだったのではないかとの記述があることを指摘した。宮島は坪井の鑑定について、寺村光晴(1968年、1995年)や藤田富士夫(1992年)によって「ヒスイが日本に産出しないという先入観」や「不十分な鑑定」という意見があることを紹介したものの「誤鑑定だと実証できない状況でのこの記述には疑問を感じる」と記述した。長者ヶ原遺跡で長期にわたって発掘調査を担当した木島勉によれば、同遺跡にはヒスイと石英岩の双方が存在するという。そして、坪井は1986年(昭和61年)まで存命だったので、八幡や寺村が当時の鑑定方法について確認することも可能であったとする。
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