大正時代から昭和時代・戦前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 03:12 UTC 版)
「丹後ちりめんの女工」の記事における「大正時代から昭和時代・戦前」の解説
旧加悦町にあった西山機業場の1918年(大正7年)から1924年(大正13年)の職工数の推移をみると、男女比率は1:2で圧倒的に女工が多かったが、製糸や紡績の大工場に比べると男性比率が高いほうであった。ちなみに1918年(大正7年)は86名の職工のうち女性が60名、男性は26名で、1924年(大正13年)には、女性が39名、男性が22名と、女工の数が大きく減少している。この変化は、第一次世界大戦後の不況の影響と同時に、手織から力織機への転換により、織り手の需要が一部で減少したところもあると考えられる。 日本銀行京都支店が、1915年(大正4年)と1925年(大正14年)に実施した丹後機業の実態調査によると、1925年(大正4年)には力織機化がなかなか進まず、需要の多い丹後ちりめんは織機によって廉価に供給することを指導している。このように大正から昭和戦前期には、江戸時代から明治時代のような農家の副業や女性の内職ではなく、機織業が専業化し、かつ手機から力織機へ移行していた。1925年(大正14年)の調査では、丹後地域では織機30台以上を保有する工場が8か所あった。
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