大正・昭和(太平洋戦争前): 男色文化復活
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「日本における同性愛」の記事における「大正・昭和(太平洋戦争前): 男色文化復活」の解説
西洋人の非難の対象になったことで従来の男色文化は風化していったとされるものの、大正期には男色は秘密クラブや男娼のような形で各地に復活した。発展場も大正年間までにはあったとみられ、江戸川乱歩『一寸法師』(1927年/昭和2年)には深夜の浅草公園(浅草寺境内)に屯すゲイの姿が生々しい。また太平洋戦争前の一時期、東京・上野公園には男娼が屯していたことが知られ、昭和初頭には男娼は銀座街頭へも進出し、ゲイバーやゲイクラブも昭和初年には出現していた。こうして公園や映画館が出会いの場になり大規模な組織も生まれた結果、江戸期の規模に匹敵していたとされるが、かつてのように社会の賞賛の対象になったり、女色の上位に置かれることはなかった。この頃は男色研究も進展をみせた。南方熊楠は明治以降に同性愛を考察し、岩田準一は「本朝男色考」(1930年/昭和5年)で男色研究の基礎を築き、江戸川乱歩はその岩田と男色文献の収集を競った。岩田はまた南方熊楠とも男色について書簡を交わしたほか、古今東西の男色文献を「男色文献書志」にまとめようとも試みた。因みにこの頃、『少年愛の美学』(徳間書店)を太平洋戦争後上梓することになる稲垣足穂(後述)も乱歩と出会っている。菊池寛も大正14年(1925年)4月8日付けで、古今東西の男色に関する蘊蓄を満載した手紙を書いている。この手紙は文藝春秋に投稿された坂田行雄の随筆「作家と男色」への評価とアドバイスを綴ったもので、ギリシャ神話やシェークスピア、オスカー・ワイルド、古事記などに関する記述が見られる。因みに菊池寛の男色指向は研究者間では知られていたが、その指向を自ら明示した手紙の発見(2008年)でそれが裏付けられた。 同性愛に関する研究が進んだ背景として、大正2年(1913年)、同性愛を異常と見なさない立場から医学的に同性愛(ウールニング)に言及した、クラフト・エビング『性の精神病理』(1886年)が『変態性欲心理』というタイトルで日本で出版されて性科学がブームになっていたことがあり、岩田らの前にも「同性の愛」(1914年/大正3年、文明社、野元一二)、「男性間に於ける同性愛」(1920年/大正9年、『日本及日本人』、田中香涯)、「同性愛の民族的歴史的考察」(1922年/大正11年、『性』、新井誠夫)などの同性愛研究があった。その他の文献には、女性同性愛を取り上げた田村俊子の「同性の恋」(『中央公論』1913年/大正2年)、異性装などに関する「男優の女と女優の男」(『中央公論』1920年/大正9年)、性転換を取り上げた「女が手術を受けて男になった話」(『婦人公論』1921年/大正10年)などがあり、大正デモクラシーから昭和初頭にかけては比較的多く同性愛に関する資料が残っている(その他の明治〜昭和初期にかけての文献は参照)。
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