大正・昭和時代とは? わかりやすく解説

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大正・昭和時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 09:29 UTC 版)

南砂」の記事における「大正・昭和時代」の解説

1917年大正6年)の「大津波」(正確に台風による高潮であり、津波とは異なる)や1923年大正12年)の関東大震災では、南砂大きな被害受けた1924年大正13年)、「砂町海水浴場」が開設された。これは地元青年団主催海水浴場で、1日に3164人の来場があったとされる浅瀬広がり潮干狩りを楽しむことができた。当時、この一帯歓楽地であり、洲崎遊郭洲崎球場などがあったほか、1928年昭和3年)から1972年昭和47年)まで城東電気軌道(のちの都電砂町線)の路面電車走っていた。「砂町海水浴場」は1948年昭和23年)まで続いた1930年昭和5年)、「明治43年の大水害」を教訓荒川放水路完成し大正時代から昭和時代には埋め立て進んだ。この埋め立てられ地域現在の新砂である。当時海岸線を示す物は21世紀初頭の現在、堤防フェンス土台としてコミュニティー通り海岸堤通り)に残っているだけである。砂村一族村民植えるように言っていた堤防松の木今は無い。宝六島南砂の海はなくなってしまった。そんな最中1934年昭和9年)、永井荷風散歩訪れ、元八幡富賀岡八幡宮)を見つけて喜んだという逸話がある。 その後工場町工場立地するようになり工業地としての性格強くなっていた。1929年昭和4年)、越中島支線開設北砂小名木川駅置かれた。1931年昭和6年)には、汽車製造平岡工場東京製作所)が移転してきた。地盤沈下進み問題となった南砂二丁目1918年大正7年)から1980年昭和55年)の間に4. 57m沈下したことが知られている。1945年昭和20年3月10日東京大空襲では工場狙われ南砂大きな被害受けた戦後1949年昭和24年)のキティ台風高波にも襲われた。 1959年昭和34年)、「首都圏既成市街地における工業等制限に関する法律工業等制限法)」が制定され工場等の新設増設制限された。また地盤沈下などの公害深刻化し企業負担増大した1965年昭和40年)頃から大規模な工場移転が行われた。 1960年代は、ハエ大量発生悩まされていた。1965年には南砂主婦北砂主婦合同で、東京都ハエ撲滅対策陳情が行っている。こうした動き対応して東京都は、近隣埋立地である夢の島一部において、地表ハエ幼虫ごと焼き払う焦土作戦実行した1969年昭和44年)には、帝都高速度交通営団(現:東京地下鉄東西線延伸。「南砂町駅」が開設された。公共交通機関都電バスしかなく「陸の孤島」と揶揄された時代から一変した工場跡地には団地建てられた。汽車製造東京製作所跡地南砂2丁目住宅になった南砂一丁目から六丁目の各町に都営住宅建てられた。

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「大正・昭和時代」を含む「南砂」の記事については、「南砂」の概要を参照ください。


大正・昭和(~敗戦)時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 06:26 UTC 版)

川崎市の歴史」の記事における「大正・昭和(~敗戦時代」の解説

川崎町では1921年大正10年6月待望水道敷設された。それ以前二ヶ領用水生活用水として使用していた。そのため1886年明治19年)のコレラ流行時には川崎町患者60人のうち40人が死亡大師河原村53人のうち43人が死亡橘樹郡内では338人の患者発生そのうち254人が死亡していた。市の合併話はこの水道敷設から現実味帯び大正11年には大師河原村御幸村への給水開始されたことをきっかけに、3町村合併1924年大正13年)に川崎市となった1923年9月1日関東大震災では、東京横浜のように大規模な火災こそ発生しなかったものの、川崎市全体全壊家屋2916半壊家屋4455、死者383人、行方不明16人の被害出した工場集中する川崎町田島町大師町三町被害全体76%にあたり、特に富士紡川崎工場全壊12800坪、半壊2600坪、建物19棟が崩壊したとりわけ夜勤明け女工眠っていた寄宿舎倒壊惨事となり、圧死154名、重傷34名のほとんどが地方出身女子労働者であった震災時デマによる朝鮮人虐待川崎南部でも発生した富士紡川崎工場後片付け雇われた2名、田島町塩浜で1名、川崎駅前で1名の朝鮮人殺害された。川崎町小土呂では朝鮮人間違えられ日本人1名が殺害された。 現在の川崎区幸区一部市域として人口5万人で出発した川崎市は、1933年昭和8年)に中原町合併した丸子橋架橋寄付金で町財政苦しくなったことが要因のひとつであったその後次々と多摩川沿いの北部町村合併し1940年には人口31万人都市となったこの人増加町村合併と、日中戦争以後軍需工場新設ラッシュよる。1936年には従業員5名以上の工場103であったが、37年13738年25039年447増加し、それにつれて全国から労働者流入した多摩川砂利採掘江戸時代ら行われていたが、あまりに大量に掘ったために堤防壊れやすくなったこともあり、1934年昭和9年)に多摩川砂利採掘禁止された。砂利採掘事業は「陸掘りおかぼり)」へと移行することとなり、東京横浜電鉄中心となって東京川崎砂利株式会社設立され等々力緑地一帯砂利採掘が行われた。採掘跡は戦後釣り池となり、東横水郷呼ばれた1925年大正14年)に工事開始され新鶴見操車場地域影響与えた橘樹郡中丸子中原町日吉村鶴見町にまたがる、総面積8000ヘクタール広大な土地への工事に、加瀬山は切り崩され東横住宅三菱重工業現在の三菱ふそうトラック・バス川崎工場)の建設敷地使われた。土地人々買収道路問題移転料の問題苦しんだ資金難により、二ヶ領用水用水組合から川崎市の手委ねられると、神奈川県平瀬川三澤川改修し久地円筒分水をつくり、上河原堰堤つくった当時技術粋を集めた久地円筒分水1941年昭和16年)に完成した1939年には軍需工業都市目指し日本初公営工業用水道つくられ京浜工業地帯軍需工業一変した。すでに開通していた南武砂利鉄道が、工業地帯造成資材三多摩から運び工場市域内陸部に次々と進出した。第101連隊再編され内地防衛東部62部隊ができると、軍部実践訓練用軍用地多摩丘陵向丘村宮前村横浜市元石川町にまたがる広大な農地山林強制収用1940年8月開始し、「溝ノ口演習場」とした。同じく1940年生田村枡形山陸軍科学研究所移転し2年後1942年登戸研究所として独立秘密兵器研究開発指導あたった1942年11月には宮崎台に「溝ノ口兵舎」が新設され、1528人の兵隊駐屯した。 戦争拡大成人男子次々と戦場送られる中、重工業労働力小学校高等科卒業した少女担った川崎労働力不足を補うため1942年12月全国から女子勤労報国隊受け入れ始まり1943年には北海道東北農村女性1万人が川崎軍需工場就労した1944年昭和19年8月川崎市では三年生から六年生学童7500人が、現在の伊勢原市を含む神奈川県中郡など県内農村地帯と、川崎北西部丘陵地帯疎開した。 軍需工場集中する川崎1942年4月18日本土初の空襲にあい、1944年から集中的な空襲を受けるようになった最大空襲1945年4月15日10時ごろから始まった川崎大空襲で、臨海工業地帯蒲田など東京南部攻撃目標であった空襲警報16日午前1時10分に解除され明け方5時ごろに鎮火した空襲全体被害は、全半焼家屋は3超え工場287罹災者死者含め10万人を超え川崎市域では死傷者1000人、負傷者約15000人といわれる1943年39万人余いた市の人口は、敗戦時には20万人余に落ち込んだ

※この「大正・昭和(~敗戦)時代」の解説は、「川崎市の歴史」の解説の一部です。
「大正・昭和(~敗戦)時代」を含む「川崎市の歴史」の記事については、「川崎市の歴史」の概要を参照ください。

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