砂利採掘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 09:24 UTC 版)
多摩川の川砂利採掘について触れた最も古い文献史料は江戸時代中期、宝暦3年(1753年)の日付がある、下丸子村の平川家文書である。これによると、下丸子村と上平間村に幕府から300坪分の砂利を納めるよう指示が下されたことがわかる。続いて宝暦5年には源右衛門なる人物が多摩川の砂利を採掘する許可を幕府に申請し、代官所が上平間村から諏訪河原村までの13ヶ村の役人を呼び出して、この採掘に問題が無いかどうか検討させたとの記事もある。宝暦8年には幕府は多摩川砂利を御運上場としている。これは民間の業者を請負人として幕府向けの砂利採掘をさせるもので、江戸松嶋町与兵衛、川崎町源右衛門といった名前が請負人として記録されている。こうした体制は文化2年まで続き、文化3年(1806年)より、八幡塚、下平間、小杉、上丸子、上平間、小向、下沼部、下丸子、矢口、古市場、高畑の9ヶ村が共同で幕府御用の砂利採掘を請け負うこととなった。こうした体制は幕末まで続いた。多摩川砂利の需要は武家が8割、町方が2割と見られており、幕末になって武家に倹約令が敷かれると、多摩川の砂利採掘業は経営が立ちゆかなくなった。 明治以降、建築物にコンクリートが使われるようになると、多摩川はその原材料の一つである砂利の産地として注目された。また鉄道の道床用や外航船のバラストとしても多摩川の砂利は多用された。砂利採掘が可能な場所は全国にあったが、需要が集中する首都圏に供給する上で、砂利の輸送コストが低く抑えられる多摩川に砂利採掘は集中していった。関東大震災後の建設ラッシュで砂利需要はピークに達し、大正時代が終わる頃には東海道線鉄橋より下流の砂利は採掘し尽くされていた。採掘場所は必然的に上流へのぼり、宮内、下野毛、北見方、諏訪河原、瀬田、二子はもとより、宇奈根、宿河原、登戸まで拡大した。 1922年(大正11年)の多摩川砂利の採掘量は115万トンで、翌年の全国の採掘量320万トンの3分の1を超えている。この数字は日本最大の砂利生産量で、1935年(大正14年)度には145万トンに増加した。過剰な砂利採掘により河床が低くなり、農業用水の取水が出来なくなったり、潮位によっては塩分を多く含む河口の水(塩水くさび)が遡行し、農業用水や水道原水に流入したりするといった被害が続出する環境問題に発展する。 また、河床低下により取水が困難となった用水路への対策として上河原や宿河原などに取水堰が築かれ、東京都の水道取水地があった調布(現在の田園調布)には塩分の逆流を防ぐための堰が築かれた。堰により水道・農業用水の取水は容易になったが、今度は多摩川名産の鮎の遡上を阻害することとなり、都市化が進む流域からの生活排水の垂れ流しによる水質汚染と相まって、多摩川での漁業と生態系は壊滅的な被害を受けることとなった。さらに、宿河原堰の構造上の問題により洪水時に堤防を破る被害(狛江水害)も発生するなど、新たな問題が顕在化する。そこで内務省は1934年2月に「多摩川砂利採取取締法」による取り締まりを実施し、1936年2月1日には二子橋より下流での砂利採掘が全面禁止されるに至った。 こうした環境保護のための規制が敷かれつつも、大きな利益を生む多摩川の砂利採掘業は止まるところを知らず、大小の採掘業者が乱立し、砂利採掘禁止区域内での盗掘が横行していた。採掘された砂利は当初は主に船舶で搬送していたものの、大型建設が相次ぐ大需要地・東京に運ぶための鉄軌道敷設が各地で計画され、玉川電気鉄道、南武鉄道、京王電気軌道、多摩鉄道、東京砂利鉄道などが競って砂利輸送を行った。このうち南武鉄道などは公然と違法採取を行っていたことが記録に残っている。 第二次世界大戦後も東京都の立川市や調布市のアメリカ軍基地建設、そして高度経済成長による首都圏各地の工事需要で多摩川の砂利採掘は続き、堤防の内外には違法に採取された砂利の採掘跡が塹壕のように点在していた。これらの採掘穴には雨が降ると水が溜まり、子供が溺れるなどの被害も出た。最終的に青梅市内の万年橋より下流での砂利が全面採掘禁止となり、翌年には多摩川全域で砂利採掘が禁止された。
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