大正・昭和戦前期の「学校令」
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「学校令」の記事における「大正・昭和戦前期の「学校令」」の解説
大正時代には中橋徳五郎文相の下での「高等教育拡充計画」を背景に、1918年12月に公布された2つの「学校令」により、明治後期以降続いていた高等教育制度の混乱に終止符が打たれた。すなわち一つは高等学校令の全部改正(第二次高等学校令)であり、大学進学課程(高等科)としての高等学校の性格が明確化された。もう一つの大学令では、帝国大学以外の大学、すなわち官立(単科)大学・公立大学・私立大学の設立が容認された。以降、数多くの官・公・私立専門学校が大学昇格運動を展開し、大学令準拠の(旧制)大学への改編を達成した。これらの結果、それまで言論界・教育界を騒がせてきた「学制改革」論議には一定の決着が与えられ、戦前期日本における高等教育制度の確立を見るに至った。当該期にはまた、幼稚園令(1923年)および盲学校及聾唖学校令(1926年)によって、それまで公教育体系の外部に位置づけられていた就学前(幼児)教育と障害者教育が初めて制度化されるに至った。 昭和期の1930年代後半には、戦時色が濃厚となった時局を背景に戦時動員のための学校制度改革が進行した。まず軍事教育の必要上、従来は中等以降の学校教育からドロップアウトしていた農村の勤労青年を対象とする社会教育の制度化が進められ、1935年10月、青年学校令として公布された。続いて第二次世界大戦開始後の1943年1月には、中学校・高等女学校・実業学校を旧制中等学校として包括する中等学校令が公布され、職業教育を行う実業学校の中等学校としての位置づけが明確化され、戦後の新制(職業科)高等学校に接続する側面が見られた。さらに同年3月の師範教育令全部改正(第二次師範教育令)により、師範学校が官立専門学校と同程度の地位に昇格した。
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