大正・昭和初期とは? わかりやすく解説

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大正・昭和初期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:22 UTC 版)

邪教」の記事における「大正・昭和初期」の解説

1921年大正10年)、内務省は、複数宗教団体邪教淫祀とみなし、そのひとつである大本教神殿全て取り壊す決定行った同時に祭神不明一千余り神社廃止することを決定した詳細は「大本事件#第一次大本事件」および「神社#近代社格制度」を参照 1925年大正14年)に治安維持法成立当初日本共産党朝鮮共産党などの共産主義勢力標的としたが、1928年昭和3年)の改正以降類似新興宗教弾圧にも多用されるようになった1933年昭和8年8月神道天津教邪教であるとされ、本部警視庁から閉鎖命じられた(第一次天津教弾圧事件)。 詳細は「治安維持法#その歴史役割」および「竹内文書#天津教弾圧事件」を参照 1935年昭和10年)には、再び大本淫祠邪教とされて政府から弾圧を受け、全国紙でもそのように断定して批判報道された。この時、刑法74条「皇室対する罪」の適用加えて治安維持法適用された。 詳細は「大本事件#第二次大本事件」および「出口王仁三郎#第二次大本事件」を参照 遠藤高志論文では、「1936年昭和11年)には「類似宗教」「邪教」と銘打った書籍の出版集中したと書いてある。同年には宮内省女官長邪教まつわる不敬被疑により検挙された。文部省は、1935年昭和10年)から1936年昭和11年)の調査により、神がかり呪い祈祷などで人心魅惑し迷信引きずり込んだ邪教が約150種に及ぶと発表した。さらに、天津教二度目大規模な強制捜査を受ける(第二次天津教弾圧事件)。 1937年昭和12年)の日華事変勃発後は、再び淫祀邪教蔓延しているとされ、警視庁特高部の発表によれば事変発生前の10倍以上となったとされている。同年PL教団前身ひとのみち教会邪教として解散させられた。翌1938年昭和13年)に入ると、天理教分派団体である天理本道結社禁止となり、天理教自体邪教レッテルを貼られることを免れようとして、軍部戦争へ全面協力体制決める。 「パーフェクト リバティー教団#沿革」および「天理教#教団の組織化・国家統制時代・戦後」も参照 1939年昭和14年)、治安維持法刑法該当しない場合でも取り締まり可能とする「宗教団体法案」が、帝国議会提出された。そして日本大東亜戦争突入すると、国の統制下に入らない宗派宗教団体はすべて邪とみなされ弾圧されるようになる。この過程創価教育学会(現・創価学会会長牧口常三郎命を落とした一方天津教1944年昭和19年)の大審院判決無罪勝ち得ている。 詳細は「宗教法人法#宗教団体法」および「特別高等警察#沿革」を参照 多数派として邪教弾圧支持した教派や団体の中には、このことについて後に自派戦争責任認め見解明らかにしたところもある。 「ホーリネス弾圧事件」および「美濃ミッション#神社参拝拒否事件」も参照

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大正・昭和初期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 17:26 UTC 版)

少女小説」の記事における「大正・昭和初期」の解説

大正時代に入ると少女向け雑誌隆盛迎える。なかでも吉屋信子小説中原淳一挿絵少女たちから絶大な支持獲得した吉屋1916年大正5年)から『少女画報』に連載した花物語」は、花をモチーフ少女たちの友愛描き7話完結予定8年間続くほどの人気誇った作品である。本作川端康成中里恒子との共同執筆)の「乙女の港」など「エス作品原型となり、その影響現代にまで及んでいる。 昭和に入ると、ベストセラーとなるほどの売れ行き上げ少女小説現れる横山美智子の「嵐の小夜曲セレナーデ)」(昭和4年から5年、『少女の友』で連載)は実に54版もの重版重ね、「講談社ビルはこの本のおかげで建ったといわれるほどの大ヒットとなったこのような人気作品生まれたことにより、少女小説というジャンル確立されたといえよう。しかし少女小説対す文学的な評価低く少女趣味偏った小説女子ども読み物、といった見方強かった。そのため、吉屋少女小説第一人者とされたにもかかわらず1980年ごろにフェミニズム観点から再評価されるまでは、少女小説家としての一面軽視され第二次世界大戦後歴史小説などがもっぱら評価されていた。川端康成与謝野晶子吉川英治といった大家少女小説執筆しており、また挿絵川端龍子竹久夢二などの有名画家が手掛けていたことも事実であるが、彼らの少女小説での仕事言及されることは少なく日本近現代文学史の中の少女小説位置づけは、いまだ定まっていない。

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大正 - 昭和初期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 09:17 UTC 版)

発展場」の記事における「大正 - 昭和初期」の解説

発展場という言葉使われていないが、戦前映画館公園などゲイ男性出会いの場になっていたといわれ、遅くとも大正期には発展場存在していた(それより前は未検証)。一例として江戸川乱歩一寸法師』(昭和2年)には、浅草公園深夜屯するゲイ出てくる場面がある。また戦前一時期上野公園男娼屯していたことで知られている。

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大正、昭和初期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 08:21 UTC 版)

家政学」の記事における「大正、昭和初期」の解説

民主主義機運高まり、生活の問題取り上げられ,生活の科学的実証的研究必要性認識され始めたが、経験や勘による家事技術から、食物被服分野自然科学的実験法による実証的研究進展した太平洋戦争勃発すると、日本本来の「いえ」意識喚起された。「いえ」は国力を培い、戦力を養う根源体であると認識された。 戦争厳しくなると、労働力の確保観点から、戦時下において家庭生活労働力再生産の場であるという認識示され最低賃金最低生活費休養栄養等研究さかんにおこなわれるようになった。 とくに、大熊信行は、経済学者立場ではあったが、科学としての家政学追求する姿勢示し家政学原論家政学以外の分野から問い直し構築しようとした彼の家政本質生産性にある」とする「生命再生産理論は、生活経営体を研究する家政学創造必要性を問う研究で、家政学にとってきわめて重要な意味を持つ。しかし家政学にはそれに答え準備はまだ十分ではなかった。この頃家庭科という教科家政学という学問区別して家政学一つ科学していこうという動き徐々に始まった

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