大正・昭和初期
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1921年(大正10年)、内務省は、複数の宗教団体を邪教淫祀とみなし、そのひとつである大本教の神殿を全て取り壊す決定を行った。同時に祭神不明の一千余りの神社を廃止することを決定した。 詳細は「大本事件#第一次大本事件」および「神社#近代社格制度」を参照 1925年(大正14年)に治安維持法が成立。当初は日本共産党、朝鮮共産党などの共産主義勢力を標的としたが、1928年(昭和3年)の改正以降、類似(新興)宗教の弾圧にも多用されるようになった。1933年(昭和8年)8月、神道天津教が邪教であるとされ、本部が警視庁から閉鎖を命じられた(第一次天津教弾圧事件)。 詳細は「治安維持法#その歴史的役割」および「竹内文書#天津教弾圧事件」を参照 1935年(昭和10年)には、再び大本が淫祠邪教とされて政府から弾圧を受け、全国紙でもそのように断定して批判、報道された。この時、刑法第74条「皇室に対する罪」の適用に加えて、治安維持法も適用された。 詳細は「大本事件#第二次大本事件」および「出口王仁三郎#第二次大本事件」を参照 遠藤高志の論文では、「1936年(昭和11年)には「類似宗教」「邪教」と銘打った書籍の出版が集中した」と書いてある。同年には宮内省の女官長が邪教にまつわる不敬被疑により検挙された。文部省は、1935年(昭和10年)から1936年(昭和11年)の調査により、神がかり、呪い、祈祷などで人心を魅惑し、迷信に引きずり込んだ邪教が約150種に及ぶと発表した。さらに、天津教が二度目の大規模な強制捜査を受ける(第二次天津教弾圧事件)。 1937年(昭和12年)の日華事変勃発後は、再び淫祀邪教が蔓延しているとされ、警視庁特高部の発表によれば、事変発生前の10倍以上となったとされている。同年、PL教団の前身、ひとのみち教会が邪教として解散させられた。翌1938年(昭和13年)に入ると、天理教の分派団体である天理本道が結社禁止となり、天理教自体も邪教のレッテルを貼られることを免れようとして、軍部と戦争への全面協力体制を決める。 「パーフェクト リバティー教団#沿革」および「天理教#教団の組織化・国家統制時代・戦後」も参照 1939年(昭和14年)、治安維持法や刑法に該当しない場合でも取り締まり可能とする「宗教団体法案」が、帝国議会に提出された。そして日本が大東亜戦争に突入すると、国の統制下に入らない宗派・宗教団体はすべて邪とみなされ弾圧されるようになる。この過程で創価教育学会(現・創価学会)会長の牧口常三郎が命を落とした。一方、天津教は1944年(昭和19年)の大審院判決で無罪を勝ち得ている。 詳細は「宗教法人法#宗教団体法」および「特別高等警察#沿革」を参照 多数派として邪教弾圧を支持した教派や団体の中には、このことについて後に自派の戦争責任と認める見解を明らかにしたところもある。 「ホーリネス弾圧事件」および「美濃ミッション#神社参拝拒否事件」も参照
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大正・昭和初期
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大正時代に入ると少女向けの雑誌は隆盛を迎える。なかでも吉屋信子の小説と中原淳一の挿絵は少女たちから絶大な支持を獲得した。吉屋が1916年(大正5年)から『少女画報』に連載した「花物語」は、花をモチーフに少女たちの友愛を描き、7話完結の予定が8年間続くほどの人気を誇った作品である。本作は川端康成(中里恒子との共同執筆)の「乙女の港」など「エス」作品の原型となり、その影響は現代にまで及んでいる。 昭和に入ると、ベストセラーとなるほどの売れ行きを上げる少女小説が現れる。横山美智子の「嵐の小夜曲(セレナーデ)」(昭和4年から5年、『少女の友』で連載)は実に54版もの重版を重ね、「講談社のビルはこの本のおかげで建った」といわれるほどの大ヒットとなった。 このような人気作品が生まれたことにより、少女小説というジャンルが確立されたといえよう。しかし少女小説に対する文学的な評価は低く、少女趣味に偏った小説、女子どもの読み物、といった見方が強かった。そのため、吉屋は少女小説の第一人者とされたにもかかわらず、1980年ごろにフェミニズムの観点から再評価されるまでは、少女小説家としての一面は軽視され、第二次世界大戦後の歴史小説などがもっぱら評価されていた。川端康成や与謝野晶子、吉川英治といった大家も少女小説を執筆しており、また挿絵も川端龍子や竹久夢二などの有名画家が手掛けていたことも事実であるが、彼らの少女小説での仕事に言及されることは少なく、日本近現代文学史の中の少女小説の位置づけは、いまだ定まっていない。
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大正 - 昭和初期
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発展場という言葉は使われていないが、戦前も映画館や公園などがゲイ男性の出会いの場になっていたといわれ、遅くとも大正期には発展場は存在していた(それより前は未検証)。一例として江戸川乱歩『一寸法師』(昭和2年)には、浅草公園に深夜屯するゲイが出てくる場面がある。また戦前の一時期、上野公園に男娼が屯していたことで知られている。
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大正、昭和初期
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民主主義の機運が高まり、生活の問題が取り上げられ,生活の科学的・実証的研究の必要性が認識され始めたが、経験や勘による家事技術から、食物・被服分野の自然科学的実験法による実証的研究へ進展した。太平洋戦争が勃発すると、日本本来の「いえ」意識が喚起された。「いえ」は国力を培い、戦力を養う根源体であると認識された。 戦争が厳しくなると、労働力の確保の観点から、戦時下において家庭生活は労働力の再生産の場であるという認識が示され、最低賃金・最低生活費・休養と栄養等の研究がさかんにおこなわれるようになった。 とくに、大熊信行は、経済学者の立場ではあったが、科学としての家政学を追求する姿勢を示し、家政学原論を家政学以外の分野から問い直し、構築しようとした。彼の「家政の本質は生産性にある」とする「生命再生産」理論は、生活経営体を研究する家政学の創造の必要性を問う研究で、家政学にとってきわめて重要な意味を持つ。しかし家政学にはそれに答える準備はまだ十分ではなかった。この頃、家庭科という教科と家政学という学問を区別して家政学を一つの科学にしていこうという動きは徐々に始まった。
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