神社参拝拒否事件
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1929年9月24日、美濃ミッションの教会員の子弟たちが、大垣市中小学校(現大垣市立興文小学校)で行われた県社常葉神社の参拝を拒否した。この事件は『美濃大正新聞』1930年3月13日の報道をきっかけに、各新聞でも報道された。これを受けて日本基督教会大垣教会教会員で安八農学校校長の佐藤信夫は、我々キリスト教徒も迷惑を感じている。神社参拝に反対する必要はない、と述べた。美濃ミッションの児童は3月23日の大垣招魂祭例も拒んだ。これらの事件により9月23日提出した美濃ミッション設立願いはついに認められなかった。 1933年、美濃ミッションの子弟が伊勢神宮参拝を偶像であるとして拒んだ。この事件は新聞で大々的に報道された。岐阜県の政治家大野伴睦は「市民は合法的に、実力で美濃ミッションを閉鎖せよ」と述べた。煽動された大垣市地元民は「美濃ミッション排撃の歌:守れ国体、葬れ邪教」を作って美濃ミッションを迫害した。 我が国体の尊厳を 害なう彼らミッションの排撃目ざす 我らこそ 使命に生きる国民ぞ血潮漲る憂国の 麋城(びじょう)の健児の力もて倒せミッション倭異奴輩(ワイドハイ) 正々堂々最後までいざ起て勇士時は今 我市四萬の健児らよ邪教の牙城を葬りて 正義の御旗輝かせ — 日本基督教会大垣教会牧師朝倉重雄は、「神社に低頭するのは、キリスト教信仰に何ら差し支えない」として美濃ミッションを非難した。1933年8月21日、神社参拝を拒んだ児童たちは停学になった。同年9月1日、読売新聞は「美濃ミッション 聖書の「神」以外は一切排撃」と題する批判記事を書いた。1933年9月20日には、宣教師であるワイドナー・菊池・山中・柳瀬が上京し、内務省警保局にて意見交換を行う。その後、公的な排撃運動は自然消滅。
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