神社合祀から今日まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 01:48 UTC 版)
明治に入って各地で繰り広げられた神社合祀から日光神社も逃れることはできなかった。近世の書上帳には境内24町四方と記されているが、1886年(明治19年)には3.6町まで減じられ、境内地周辺の神社林は日光山国有林として没収された。上湯川の住人たちは境内地と神社林の返還を求める交渉を続けたが、1907年(明治40年)に至って八幡村の清水八幡神社に合祀され、その直後には社殿を含む一切の建造物は焼却された。この後も上湯川の住人による返還運動は続いたが、1922年(大正11年)に有田郡長の介入により、旧社地に八幡神社名義で神殿と社務所を建設し、境内地の所有権と国有林保管権を八幡神社に最終的に帰属せしめることが確定された。 こうして中世以来の日光社は解体され、再び光が当てられるには1965年(昭和40年)を待たなければならなかった。きっかけとなったのは、清水町の町制10周年記念行事の一環としておこなわれた県立吉備高等学校清水分校文化祭だった。文化財の郷土史展示のために行われた調査の中で、上湯川の旧家小松家所蔵の「日光三社大権現三十八社図」(日光社参詣曼荼羅)が注目を集めた。翌1966年(昭和41年)春から調査準備が進められ、分校の中川昭を中心とする調査団が、同年8月に日光神社および日光神宮寺の発掘作業を行った。調査は翌1967年(昭和42年)にかけて継続して行われ、日光社参詣曼荼羅と符合するかたちで遺構が検出されたほか、多くの遺物が出土した。
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