神社合祀令とは? わかりやすく解説

神社合祀

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/26 00:30 UTC 版)

神社合祀(じんじゃごうし)とは、神社の合併政策のことである。神社整理とも呼ばれ、複数の神社の祭神を一つの神社に合祀(いわゆる稲八金天神社)させるか、もしくは一つの神社の摂末社にまとめて遷座させ、その他の神社を廃することによって、神社の数を減らすというもの。主に明治時代末期に行われたものをさす。


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神社合祀令

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平田東助」の記事における「神社合祀令」の解説

神社合祀令は、明治39年1906年)の第1次西園寺内閣において、内務大臣原敬によって出された。この訓令一つ町村一社標準とするものであったが、地域実情合わせかなりの幅を持たせたものであった。この訓令目的が、祭神由来わからない淫祀財政的な基盤のない小社駆除し由緒のある神社保護することであったためである。だが、平田第2次桂内閣内務大臣としてこの訓令強固に推し進めることを厳命し、さらに保護すべき神社についての判断府県知事ゆだねた。そのため、特に合祀政策はなはだしかった三重県では、県下神社の9割が廃止されるという事になったこうした合祀政策には南方熊楠柳田國男などの知識人異を唱えることとなり、明治43年1910年)を境に急激な合祀終息したものの、地方文化習俗祭礼甚大な影響与えた

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