近代の八咫烏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 06:58 UTC 版)
八咫烏は江戸後期、徳川家定の時代から幕府や朝廷が次第に陰陽道や八咫烏の祭祀儀礼に頼らなくなっていったことから、八咫烏の影響力は退潮傾向にあった。幕末に孝明天皇父子が暗殺され、替え玉として長州藩出身の大室寅之祐が明治天皇としてすり替えられて即位したことで(諸説あり)宮中祭祀と天皇・内廷皇族の葬式の分野を除いて朝廷や皇室における八咫烏の影響力は殆ど失われたとされる。 続く明治時代では八咫烏とは縁が無い薩長土肥出身者が主導する明治政府が神仏判然令や神社合祀令、天社禁止令、修験禁止令等の形で直接間接の弾圧を行ったことで、大日本帝国憲法が公布される頃には解体寸前まで追い込まれるほど衰退の危機に瀕した。 しかしその後も八咫烏は存続し、岡山県総社市上原や高知県香美市で上原大夫やいざなぎ流と呼ばれる陰陽師村を築いたり、頭山満や内田良平などの人物を代理人として反体制的な政治活動をさせることで勢力拡大を図ったとされる。
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