近代の内匠寮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 05:19 UTC 版)
近代における宮内省内匠寮の起源は、1869年(明治2年)の職員令によりその前身組織が宮内省に設置されたことにさかのぼる。宮内省における造園家第1号とされ、明治神宮旧御苑などを手がけている小平義近が宮内省に使部として入ったのは1869年(明治2年)に24歳のときであることが知られている。 1871年(明治4年)に内匠司を設置。1873年(明治6年)には内匠課に改組された。小平は1873年(明治6年)には内匠課配属となっている。 1885年(明治18年)12月23日、内閣制度創設に伴い、内匠課が内匠寮となった。長官は内匠頭である。 内匠寮は建築とその内装や設備、そして宮廷庭園や離宮庭園、新宿御苑などを担当した造園、土木など、当時の皇室財産や宮廷にかかわる営繕をとりまとめた部局になる。 その後1903年(明治36年)10月31日の官制改正(皇室令第3号)により、内匠寮は「宮殿その他の建築物の保管、建築・土木・電気・庭苑および園芸に関する事務」を管掌することと規定された。 このうち造園部門は1904年(明治37年)に 内匠寮から内苑局が組織化された後にある一定期間、内匠寮から独立して内苑寮として存在していた。 1908年(明治41年)、内匠寮に工務課が設置され、1915年には内苑寮も内匠寮工務課に属し庭園係となった。 工務課のメンバーは1918年(大正7年)に実施された国会議事堂の公開建築設計競技(議院建築意匠設計懸賞募集)に際して、当時宮内省内匠寮の有志が吉武東里を中心にして数案を作成して参加。このうち渡辺福三名義での参加案が1等、永山美樹の名で出した案が3等1席に当選した。吉武は大蔵省臨時議院建築局技師に転じ、矢橋賢吉と大熊喜邦のもとで国会議事堂の設計・建設に携わっている。 旧朝香宮邸内装建設時期では課長の北村耕造のもと、建築係、土木係、庭園係、機械係と4つの係に分かれており、技師と各係の技術者は合わせて100名を超えていた。朝香宮邸の建設では基本設計を洋行帰りの建築係技師である権藤要吉が担当したが、住居と事務所部分を一体化し、ロの字に構成した朝香宮邸の基本プランは内匠寮が1925年竣工の東伏見宮邸で設計したものが下地になっている。ほかにラジエーターカバーやモザイクをデザインした大賀隆、照明や家具をデザインした水谷正雄など、優秀な技手が揃っていたことが知られている。彼らはこの他に1927年竣工の秩父宮邸、1929年竣工の李王家邸、1931年竣工の高松宮邸などを手がけている。 また、朝香宮邸と同時期に建てられた国立博物館本館(建築設計競技の結果計画案は渡辺仁が当選。1937年竣工)も宮内省内匠寮が実施設計を行っている。 一方、内匠寮工務課のうち、造園部門の主要な事業内容は以下の通りである。造園、園芸(果樹・花卉・蔬菜すべて)のほかに畜産、農業土木など広範な農学系分野の業務をカバーしていた。 庭園の築設並に修築 庭園の保護と管理 陵墓の新激に伴う造園事業難びに補修事業 疏菜の促成栽培並びに露地栽培 果樹の露地栽培並びに温室栽培 花卉の温室栽培並びに露地栽培 和洋茸の栽培 盆栽の管理 桑園の管理 茶園の管理 盆栽の宮殿その他御殿内配列 製茶 宮殿離宮その他の盛花並びに挿花 ゴルフ場、テニスコート、馬場その他運動場の新設並びに管理 道路の新設並びに管理 観桜、観菊御会の布設 鴨場の築設並びに造園管理 苑路その他の撤水並びに除雪 養鶏 小禽、水禽その他鳥類の飼育 魚族の管理 塵埃の焼却並びに汚物の塵芥 庭園係には1891年(明治24年)に福羽逸人、1893年(明治26年)に市川之雄が宮内省に入省している。こうして小平のほか、福羽と市川が在籍し、この3人 が内匠寮造園部門の主要メンバーとなる。ちょうど市川が宮内省に入省した当時、市区改正を受けてから本格化する日比谷公園の建設計画が国家的造園事業として計画検討されはじめていたが、建設計画の具体化にあたって、小平も1894年(明治27年)に日本園芸会のメンバーとして計画案を提出している。このほか中島卯三郎、原煕、岡見義男、小野勇、桜井長雄、舘粲児、折下吉延、森一雄、椎原兵市、池辺武人といった造園技師らが在籍した。 第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)10月5日、宮内省の機構整理により内匠寮は主馬寮と統合され、主殿寮が設置された。
※この「近代の内匠寮」の解説は、「内匠寮」の解説の一部です。
「近代の内匠寮」を含む「内匠寮」の記事については、「内匠寮」の概要を参照ください。
- 近代の内匠寮のページへのリンク