建築意匠
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ポール・ボナッツからの影響としては、村野は別のところでも同じポール・ボナッツとフリッツ・ショーラー設計によるシュトゥットガルト駅(英語版)(1911年-1927年)のことにも触れている。しかし聖堂と鐘楼の組み合わせの構成という点から言えば、スイス・バーゼルにあるカール・モーゼル(ドイツ語版)の聖アントニウス教会(ドイツ語版)(1927年)との類似性がよく指摘されるところである。 外観は違うが、インテリアにおいてはスウェーデンの建築家イーヴァル・ユストウス・テングボム設計によるストックホルム郊外のヘガリット教会 (スウェーデン語版)(1923年)の影響もあげられる。実は、村野が1930年(昭和5年)の欧州外遊以来、1953年(昭和28年)にこの教会を再び訪れた際、この教会の中で「どうか、私に此の教会の作者のように才能を与え給え、どうか私の努力が死ぬまで枯れずに続くように導き給え」と祈ったというエピソードがあるくらい、村野藤吾にとっては重要な建築である。この1953年(昭和28年)のストックホルム再訪は、まだ世界平和記念聖堂の内部が最終的に仕上がる前のことである。 聖堂の内部の床はテラゾー現場研き仕上げ、祭壇の周りには大理石が張られている。内部壁面巾木はイミテーショントラバーチンで仕上げられ、内壁や柱は蛭石入のモルタル掻き落とし、色モルタル吹き付け仕上げとなっている。随所にある花弁形や円形や木瓜型の開口部に日本的意匠が取り入れられているほか、天井は鉄骨小屋組から吊るされた不燃板下地に檜小節材を打ち付けて、日本的な表情を見せている。当初の設計段階では軽量鉄骨をリブラスで巻き付け、プラスターアルミ箔張りで仕上げるつもりだったというが、いかにも村野藤吾好みではある。音響的な欠点を指摘され、現在の姿に落ち着いたとされる。 内陣の正面の壁はモザイクで「再臨のキリスト」が描かれているが、通常多くの教会で十字架か復活のキリスト像が置かれる中、この「再臨のキリスト」像には特別の意味がある。キリストの再臨とは世界が終わりを迎える日のことであり、神が人間の世界に直接介入し、キリストによる支配が確立される時である。キリスト教の信仰から言えば、すべての犠牲と聖徒たちの血が購われる時であり、したがってこの世の終わりを一足先に経験したかのようなヒロシマの地に建つ記念聖堂として、その終末観を色濃く示唆しているのである。それは絶望の果ての希望であり、また廃墟からの警告でもある。ヒロシマはその証言者であり、世界平和記念聖堂もまた、自ら歩んできた建築の歴史によってそれを記念する証人となっている。 外装はコンクリート打ち放しの柱梁に色モルタルを吹き付けて、自家製コンクリートレンガ積。外装の灰色のコンクリートレンガは広島の川砂を防水セメントと混ぜ、日陰干しにして固めたものである。コンクリートレンガの目地の間は広くとられており、ヘラでひっかいて荒く仕上げられている。レンガの積み方も平滑に仕上げるのではなく、わざと凹凸に突出させて陰影を深くし、壁面に表情の変化を付け全体の印象を柔らげている。雨跡や苔がつくことによっても色合いを変えるよう、村野の職人的手法によってモダン建築に経年変化が折り込まれているのである。 窓廻りは自家製コンクリートブロックに、現場制作のスチールサッシ打ち込み。聖堂正面の特徴的な欄間彫刻は、キリスト教の7つの秘跡を表しており、彫刻家武石弘三郎が原型を作り、広島県御調町出身の彫刻家円鍔勝三と坂上政克が、現場で制作したものが嵌められている。 メンテナンス用に設けられた外部作業通路が躯体からはみ出して、躯体とドラム部分の取り合いの悪い、いささか取って付けたような花弁状の複雑な八角形の形体の「ちょっと変わった丸屋根」のドームは、アメリカはニューヨークの実業家トーマス・A・ブラッドレーの寄贈によるものである。ブラッドレーの5万ドルにものぼる多額の寄付は、当時の換算レートで1800万円にもなり、初発計画時には聖堂建設費をほぼ満たす額であった。 しかし折からのインフレで建設資材が高騰し、ブラッドレーに追加の援助を求めたところ、聖堂をまるごと寄贈した形になるのではなく、自分の金が他人の寄付金の中に埋没してしまう事態に不快感を示し、それならばと、伝統的な大聖堂建築にとって最も重要な部分である内陣とその上部のドームにブラッドレーからの寄付金を充当するということで、追加資金援助の話がまとまったのである。つまり村野藤吾は最初はこのようなドームを付けるつもりはなかったということである。とはいえ、これはブラッドレーの売名行為から出たものではなく、ブラッドレー父子の1962年(昭和37年)の広島訪問の際までこの篤志は秘匿されていたことも、付記しておかなければならない。 村野が「まことに期待通りの結果が得られないで申訳ありませんが、これから十年後になったら何んとか見られるようになりましょう」と自ら語ったその言葉通り、この建築は他のコンクリート打ち放しのモダニズム建築にない美しい風化の気配を漂わせている。しかしながら建ちあがった当時は、丹下健三の広島平和記念資料館(1955年)とはまた少しばかり違った表情ではあったにせよ、一面の焦土と化した広島の大地に打ち放しコンクリートの素の力強さを見せてすっくと立ち上がり、ともに希望の象徴となったのである。
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