欧州外遊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 05:07 UTC 版)
1921年(大正10年)2月1日、頼貞夫妻は日本郵船の加賀丸に乗船して兵庫県神戸市を出立。洋行に際して上田から派手な生活の一新を勧められている。フランス・マルセイユ上陸後、ニースを経てモーパッサンの旅行記『水の上』を読んで憧れていたコート・ダジュールを観光。同年4月4日にはイタリア・ローマの歌劇場に『マノン・レスコー』の上演を見に行き、数日後にはサンマルティーノ伯の紹介でジャコモ・プッチーニと面会している。また、ローマのアウグステオ楽堂にアルトゥル・ニキシュの演奏会を聴きに行った際にも、サンマルティーノ伯の計らいでニキシュと面会し、1923年(大正12年)に日本に招待することを約束しているが、1922年(大正11年)にニキシュが死去したためこの約束は果たせなかった。 頼貞夫妻はフィレンツェ、ヴェネツィアを経て、同年5月1日にパリに到着。洋行中の皇太子裕仁親王に在仏日本大使館で拝謁し、元帥ジョゼフ・ジョフルが皇太子のために主催した歓迎会にも出席している。パリ滞在中にはチェロ奏者のヨーゼフ・ホルマン (de:Joseph Hollman) が頼貞の滞在先のホテルを度々訪れており、ホルマンを通じてカミーユ・サン=サーンスと面会する機会にも恵まれた。欧州大陸の歴訪を終えると、頼貞夫妻はロンドンに向かい、ロンドンではヘンリー・ウッドやサマセット公らと交流している。同年10月初旬、サウサンプトン港でベンガリア号に乗船してニューヨークに渡り、カナダのナイアガラの滝を観光した後、サンフランシスコで天洋丸に乗船して11月3日に横浜市に帰着した。帰国後は東京府荏原郡大森町の森ヶ崎新邸に入る。 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の発生時は東海道旅行中であり、一時東京の両親と音信不通になってしまう。頼貞はこの時に両親の安否を非常に心配したようで、帰京後は父に対して礼儀正しくなり反抗的な態度を示さなくなったため、両親は非常に喜んでいたという。しかし、妻の為子が肺炎を患っていたこともあり、しばらくして妻の療養を目的として静岡県沼津市に移っている。この転地療養に際し、頼貞は「自分の生活をひきしめて一層真面目にやりたい」と言っていたという。関東大震災の影響で南葵楽堂の建物が大損害を被ったため、1928年(昭和3年)にはパイプオルガンを東京音楽学校に寄贈した。
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